大君・徳川慶喜を中心とした幻の新国家プラン『議題草案』を書き上げた西周

  江戸幕末オランダ留学生(正式名称:文久年間和蘭留学生)の1人であり、学識の深さに加え、西洋事情にも通暁していたことが大いに評価され、1866年に徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜の近臣兼政治顧問に抜擢された『西周(にしあまね、通称:周助。1866年、当時39歳)役職:幕府開成所教授職』
 薩摩長州両藩など勤王倒幕派の台頭、イギリス・フランスなど諸外国の圧力といった国内外の不安定情勢により、命旦夕に迫る旧態江戸幕府を討伐しようとする薩長の陰謀回避、更に幕府政体を刷新するため、徳川慶喜は1867年11月に、親慶喜派の土佐藩(立案者は同藩の下級武士である坂本龍馬)から献策された、政権を朝廷に返上するという『大政奉還』を大断行します。
 筆者も好きなNHKBSプレミアムの歴史番組『英雄たちの選択』で、鳥羽伏見の戦い前夜の徳川慶喜を主人公として取り扱われた放送回(「タイトル名:戦うべきか?退くべきか?最後の将軍 徳川慶喜の決断」)の折、司会の歴史学者・磯田道史先生は持論として以下のように展開されました。




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 『徳川慶喜は、江戸幕府15代将軍ではなく、慶喜が創設した京都徳川幕府の初代将軍と考えた方が、良いと思います。』

 『学校教育が、大政奉還を江戸幕府の終わりである、ということを教えすぎていることは、おかしいと思いますよ。大政奉還は敵方の薩長倒幕側への「鏑矢、政治開戦」だったのですね。』

(以上、英雄たちの選択番組内より)
 
 磯田道史先生が仰っていた『大政奉還は、討幕軍に対する鏑矢、政治開戦であった』という事を、僭越ながら筆者なりに加味させて頂くと、薩長(特に薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視)などの倒幕軍は朝廷を旗頭とし、徳川慶喜および江戸幕府(幕藩体制)を徹底的に討滅した後は朝廷の下、雄藩および他藩の有能の人材を中央政府に集め、議会政治により国家運営を行ってゆく、という新国家政体プランを練っていました。しかし、長年、国家運営の立法行政に携わったことがない朝廷、その未経験者である薩摩と長州の人物からしてみれば、議会政治で今後の全国政治を行っていくことは、性急かつ杜撰的計画であり、大きな混乱を招く要素が多く孕んでいました。(事実、明治10年頃まで、各地で士族の反乱の多発などで政治的大混乱期を迎えることになります)
 その倒幕側の一連の動きを察知した徳川慶喜は、瀕死状態であった江戸幕府が大政奉還を断行することで、薩長の倒幕運動計画を頓挫させ、長年日本全国の立法・行政に携わってきた徳川氏(旧江戸幕府)を中心とした新政府(磯田先生が言う「京都徳川幕府」)を樹立しようと企図したのであります。これこそ徳川慶喜が薩長に放った『鏑矢、政治開戦』というものでしょう。
 その徳川慶喜の政治開戦後に樹立されるはずの新生徳川政府の政体のマニフェストというべき存在が、西周が起案した『議題草案』であります。

 西周は後年の明治期、兵部省(陸軍省)・文部省・宮内庁などの高級官僚を歴任する傍ら、一方では福沢諭吉・津田真道などの当代随一の有識者たちと明六社を創設し、国民の啓蒙活動にも従事。官僚・啓蒙家の両方面にて、有名な「軍人勅諭」「明六雑誌」など数々の草案や文章作成、更に哲学書翻訳にと旺盛的に活動をしましたが、上記の江戸幕末に書き起こした徳川幕府中心の新国家プラン『議題草案』は、壮年期の西周が練った初期の草案(憲法起草)と言うべき存在であります。 




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 『議題草案』は、江戸幕府の敵方勢力である薩長閥を中核とした明治新政府側が天下を獲ったために、実現することなく潰えた幻の『新国家プラン』となってしまいましたが、当時の江戸幕府の力量や混沌的政局、即ち幕藩体制の限界を痛感し、更に西洋諸国の政治経済・公法に通暁している西周であるからこそ練り上げることができたのであり、その内容も当時の混沌的政局に対応できる国家構想案となっております。
 西周が(別紙)議題草案の冒頭で先ず言っているのは、『三権之別(即ち三権分立)』についてであります。現在の日本国政体でも『立法』『行政』『司法』の三権が独立し、其々が互いに侵すことが固く禁じられていることは皆様よくご存知の通りですが、江戸幕末期には、現代の三権分立となる国家政体の基本構想は、周の頭脳の中で完成していたのです。
 西周は、これまで江戸幕府が独占してきた立法・行政・司法の三権を、西洋諸国の政体をモデルとした⓵『立候権(立法)』⓶『行候権(行政)』⓷『守候権(司法)』と分離独立を制度の大眼目に据えつつも、当時の政治状況に合わせた独立制度を立案しています。その内容が以下の通りです。

⓵『立候権(立法)』について:全国各藩の大名(上院)やその有能な藩士(下院)たちの2院で構成される『議政院』を設立し、同院は「全国立法之権」と定める。また上院の元首は将軍/公方(即ち徳川慶喜)が就任し、議政院の解散権を持つ。(現在の「国会」に類似する権力システムと言うべきでしょう)

⓶『行候権(行政)』について:将軍/公方を元首とする『公方様政府』を「全国行之法権」と定め、議政院内で挙がった立法を実行する。(現在の「内閣」に類似)

⓷『守候権(司法)』について:「守方之権」については、今暫くの所、各国(各藩)の行法権に委ねる。(現在の「司法」に類似)

 以上、西周が議題草案内で起案した立法・行政・司法の三権についてであります。西周は、幕末オランダ留学生の一員として、同国のライデン大学(シモン・フィッセリング教授に師事)で、国際公法などを本格的に学んだだけでなく、直に西洋の国家政体を見てきた希少な体験者でもあります。
 即ち西周は西洋諸国で起こった三権分立制については通暁している識者であるのですが、幕臣かつ徳川慶喜の政治顧問としての彼が議題草案内で、発した新生・徳川政府の三権分立案については、⓵の立法権(議政院)と⓶行政権(公方様政府)は明確に分立されているのに対し、最後の⓷司法権については、未だ日本各地に点在する諸藩の行政権に暫時委任する、という決して(西洋の様に)明確な三権分立制とはなっていないのです。
 更に、立法権を司る議政院は上下の2院制とし、諸藩の大名を上院に配して、下院には諸藩の藩士を組み込むという点は、英蘭などの西洋の国会制度を踏襲しているのですが、議政院の議長(元首)の座には公方様、即ち徳川慶喜が就任するという形式を採り、その議長には議政院の解散権を持つという大きな権限も付与させています。
 公方様=徳川慶喜は、全国の行政権を司る『公方様政府』の元首も兼任するという案にもなっているので、議政院と政府、即ち立法と行政の2つのリーダーを慶喜が受け持つという構図になるのであります。
 
 「法と政(まつりごと)の元首役を徳川慶喜が受け持ち、司法権を諸藩に一任するというのでは、以前の徳川政権と変わらぬではないか?」




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 という論点が以前から出ているのは確かでありますが、立案者である西周は、従来の日本国の基本政治体制であった幕藩体制/封建制を一挙に消滅させ、三権を有する1つの強権的中央政府と郡県制を敷き、西洋諸国の政体を額面通りに受けて、江戸幕末の日本でも近代国家を成立させる、という事は不可能であると認識していました。
 何故ならばそれまで幕府から許されていた自治権や既得権益を剥奪される諸藩(特に薩摩長州など西国雄藩)の強い反発を受けることや、当時の殆どの大名や藩士、ひいては庶民階級に至るまで、未だ近代政治の根幹となる皆が集まって討論し、新たな国家方針を決めるという海外伝来の議会政治の仕組みに関しては無知で不慣れな面々ばかりであり、徳川の権力を縮小して、諸藩の大名や藩士たちに、一気に徳川と同等の権限や力を与えてしまったら、「船頭多くして船山に上る」という諺があるが如く、議政院や政府は大混乱してしまい、今後の外国との折衝、ひいては日本国運営の大きな障害となる、と西周は、当時の日本国内外の政局を分析した結果、そのように結論したのであります。
 西周が議題草案を提出する数か月前の1867年5月、薩摩藩主導で、京都にて開かれた『四候会議』(将軍・徳川慶喜をはじめ、島津久光松平春嶽山内容堂・伊達宗城の四候)という当時でも開明的かつ政治事情にも通じた一級の人物たちが集まったにも関わらず、互いの利権や立場に拘泥し、短期間で喧嘩別れになってしまっている結果が、議会政治の難しさを物語る好例と言うべきでしょう。
 四候会議に参加した諸侯(特に島津久光)は、参加する以上、我々も自由に意見を言えて、徳川慶喜とは同等の立場で政に参加できる、と強く思っていましたが、徳川幕府の権力復帰を目指す徳川慶喜は、「外様大名らが徳川と同等と思い、政に参加するなど笑止千万」と四候会議についての存在をも不愉快に思っており、四候に権力が移譲していくことを危惧した英明な慶喜は、わざと島津久光ら四候に喧嘩を吹っかけるような形で、会議を解散させてしまったのです。
 西周も徳川慶喜の側近の1人として、この四候会議の失敗例を間近で見てきたので、議題草案の中で、江戸幕府の三権の独占を忌み、立法権の議政院、行政の公方様政府と分権を起案しながらも、議政院の議長と政府の元首を徳川慶喜に兼任させ、院や政府内に混乱が生じた時(例えば島津久光の政治的暴走)は、速やかに慶喜が権限を以って、緊急措置(解散など)を採るという方策を打ち出したと思われます。
 西周が幕臣であり、徳川慶喜の政治顧問でもある立場上、議題草案で慶喜を立法と行政の長とする立案したこともあったのですが、徳川家康が江戸に幕府を開闢して以来、約260年の間、日本全国の国家運営を運転してきたのは徳川将軍家とその幕閣たちであることは確実なことであります。彼らが長年培ってきた政治や民政のノウハウを熟知している不動の実績があったことが大きな理由となっていたこともあったと思います。
 事実、江戸幕末の外交史で重要な役割を果たした仏国公使のR・ロッシュや英国公使のH・パークスといった海外の外交官たちも将軍・徳川慶喜(江戸幕府)を日本国の代表する君主、即ち『Tycoon/大君』として認めていました。余談ですが、Tycoonという英単語は、現在の英語でも通用しており、「富豪」や「偉大な成功者」という意味となっております。拠って、Microsoft社の創業者・ビル・ゲイツ氏やApple社を起業したスティーブ・ジョブズ氏と言った偉大な方々は、正しくTycoon(大君)なのであります。
 
 西周は、その海外からも公認された徳川慶喜の『大君』という立場を活用し、議題草案の「政府之権之事」という項目内で、以下のように条文を記述しています。
 『公方様(慶喜)は、内外の沙汰には「大君」と称する』(第3条)
 『大君は行法権(行政権)の元首とし、公府とその官僚を大坂に置き、江戸は公府の御領政府とする』(第4条)
 『大君は御領地が百万石以上あるので、議政院における上院の総頭(議長)とする』(第7条)
 『大君は時宜に応じ下院の解散するを有する』(第8条)

 上記のように、大君(徳川慶喜)と三権分立を中心とした新たな新生・徳川政権の国家プランを西周は起草したのであります。しかし、重複致しますが、三権の内の司法権については、旧来の幕藩体制を踏襲しており、『今暫く諸藩に一任する』と記述している上、「諸藩の領地についても現今通り」、「兵馬戦艦などを発動する軍事権も、旧幕府と諸藩が各々の領内で使用することにする」、といった幕藩体制下で保証されていた各諸藩の領地安堵および軍事権の保有といった武士階級の既得権益は、(暫定的ながらも)引き続き認めるとことを議題草案で触れられています。
 西洋諸国の三権分立の内、立法と行政の2大権を大君が総頭として把握して国家方針を決め、政局を運営していく近代政体を築きつつも、片や司法の権については、全国に群がる200以上の諸藩の既得権益や面子を保ち、領有権と軍事権を安堵するという幕藩体制の日本独自の旧政体も保全しているのが、西周が記した議題草案の要点となっています。




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 議題草案については、「不完全なる三権分立制」「立法と行政の大権を徳川慶喜が握るという徳川主義構想」という見解もあるのですが、西周は決して、立法(議政院)と行政(公方様政府)を、(従来の徳川将軍家のように)、独占するという徳川至上主義を唱えているのではありません。 
 全国の立法に携わる議政院は、親藩・普代・外様大名関係なく万石以上の大名は上院の議員とし、下院には諸藩に所属する有能な藩士を抜擢して、全国の国家方針を決定する国会システムを組み立て、全国の行政権を有する公方様政府は(西周や津田真道のような)有能な官僚を登用して国家行政を運営していく内閣システムを構築、この2大システムを統括する役目として大君、即ち徳川慶喜が存在しているのであり、1人あるいは1つの組織が『立法と行政の2権を持つことは虎に翼を与えた如きものであり、後々国政を専横する危険性がある』という意味合いで西周は、議題草案で記述しています。
 それまでの江戸期の国家政体は周知の通り、全国規模の立法および行政、司法の三権、ひいては清国とオランダとの外交権は、中央政府たる江戸幕府(厳密に言えば譜代大名や旗本から選出される老中や若年寄、奉行衆)のみが独占しており、それ以外の有名な徳川御三家や仙台伊達氏、加賀前田氏、薩摩島津氏など大藩ながらも外様大名らは、国家方針決定やその運営に携わる幕政参加は絶対に認められていませんでした。
 その徳川将軍家と普代衆の独占政体が永年続いたのを、西周の議題草案では、今後は議政院(上院と下院)を設け、上院には各藩の大名、下院には各藩士を組み入れて、各々には国政に参加する権利、即ち現在で言う「参政権」を与え、新たな政体・『議会政治制』を提唱しています。そして、先述のように、議会政治への参加には不慣れである殆どの大名(上院)や藩士(下院)たちの間で混乱が生じた際に、それを鎮静するために議政院総頭たる大君(徳川慶喜)が存在する、決して従来の徳川将軍家のように国政を専横独占しない、という事を、西周は言っているのであります。
 東洋大学法学部の教授で法学史をご専門とされている松岡八郎先生は、西周の議題草案について取り扱われた論文『幕末期における西周の憲法論理1・2』を上梓されていますが、その論文2巻で、上記のように議題草案で、大君を中心とした新国家政体を『大君制』と称せられていますが、全く素晴らしい譬え方であると、筆者は感銘を受けました。 
 因みに、その大君と諸藩の大名が集まる議政院では、国家方針などについて評議および決することを定められている(『致論定候ヶ条大綱』)のですが、議題草案で出ている項目を、箇条書きで挙げさせて頂くと以下のようになります。

・日本全国の法律制度の評議(『天下之綱紀制度』)
・政府の税収入率の決定(『公府高割税入之多寡』)
・諸外国との渉外法の確立(『外邦交際之大法』)
・日本国内の商法・刑法などの評議(『違反告訴之令議定之事』)
・貨幣制度の確立および政府麾下の官庁予算額の評議(『貨幣令、併に諸般雑令等議定之事』)

以上の事柄を議政院で評議する必要があると、西周は議題草案の中で記しています。
 
 前掲の松岡八郎先生が記述された『大君制』は、徳川慶喜が、「大君(Tycoon)」として議政院のみでなく、政府も統括することで成立するのですが、議題草案では、全国之行政に携わる『政府(全国之公府とも)』の草案についても言及されています。寧ろ筆者の個人的観点からすると、議政院よりも行政の政府の事についての方が、より鮮明に書かれてあるように思えます。
 西周は、政府即ち全国之公府については、『公方様即ち、その時の徳川宗家のご当主が、政府の元首と務め、行法(注:行政)権の全ては悉く、政府に属する』と第1条に書いており、全国の行政権は徳川宗家、即ち徳川慶喜が取り仕切るとしています。
大君/元首をトップとする政府を支える「人材(公府之官僚)」の選出についても議題草案では述べられております。それには、万石以上または以下の大名や旗本藩士の中で、その任務を果たすことが出来る優秀な人物を選任登用することをする一方、官僚の長たる役職の宰相は、議政院の評議人選で決定することを述べていますが、官僚の昇進および降格という人事決定権は、大君が有することとしています。




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 官僚の進退の決定権という条目でも、大君(徳川慶喜)の勝手次第とし、混乱が生じないように、大名や旗本藩士を出自とする政府官僚の統制を徹底する意図が見て取れます。
 政府の下、優秀な官僚人材を各部門に配して、日頃の国家運転を行っていくという政治制は、数年後に現出する明治新政府の官僚体制に似ている部分が多々ありますが、それ以前に幕臣である西周が議題草案で、上記のように官僚制を起草していたのであります。また西周は選抜された官僚たちを活用する官庁の創設についても、(旧江戸幕府の役職を基盤として)「政府之権之事 第9条公府之官制」で起案しています。これを『事務府』を称しており、詳細は以下の通りであります。

⓵全国事務府:旧幕府での「大目付」相当、現在の総務省相当。国の政治事務および官僚の人事管理を担当する。

⓶外国事務府:旧幕府での「外国方」、現在の外務省相当。文字通り諸外国との外交折衝を担当する。

⓷国益事務府:旧幕府での「勘定方」、現在の国土交通省と経済産業省相当。全国に点在する宿駅・伝馬や人足・鉱山とその資源の出納・海運などの管理を担当。また江戸幕末期の最先端技術であった電信、蒸気機関車の開発普及業務をも担当。金銀貨幣の鋳造や紙幣の製造を担当する「勘定局」もこの府の隷属下とする。

⓸度支事務府:旧幕府での「勘定方」、現在の財務省相当。議定に準じて納められた税金を管理し、国家予算の骨組みを考案する。即ち歳入歳出の管理役。

⓹寺社事務府:旧幕府での「寺社方」、現在の文部科学省(文化庁)相当。文字通り、全国の寺社(宗教)を統括する府であり、西周も『寺社奉行そのままである』と書いています。またこの府の管轄下として、教育面を担当する学政事務府を置くことも書いています。

 以上⓵~⓹までの事務府を『五府』と西周は総称した上、各府の責任者である『宰臣(即ち大臣)』についての選出方法(『五府宰臣黜陟之権』)についても挙げています。
 五府の宰臣任命は、先ず議政院で各府に3名の候補者を選出し、その中から徳川慶喜こと大君が、1名ずつ任命するようにしています。即ち大君が宰臣の任命権を持っているということであります。また各府の官僚たちの配属については、議政院の議定を基準として、各宰臣と相談の上で決定する、という方法を出しています。

 西周が議題草案で、上記のように公府と五府について書いているのを読んで、筆者が真っ先に思い浮かべたのは、この同時期の徳川親藩大名の紀州藩で、藩主・徳川茂承の抜擢を受け、近代政治(身分制の廃止や殖産興業)の確立を目的とした藩政改革と軍制改革(徴兵制、近代軍隊の創設)を立案、それを主導した同藩の一藩士・津田出(通称:又太郎)の存在であります。
 津田も(西周が議題草案を記したように)、「御国政改革趣法概略表」という改革草案を記し、それを基として明治新政府を先取りした藩政と軍制の大改革を敢行。そして成功させているのですが、その藩政面では旧来の門閥主義による藩政の撤廃(四民平等)、三権分立を主題とした近代政治制を確立して、出自不問の実力主義の人材登用を行い、政治機構では「政事府(1府)」を紀州藩の中央政府とし、また省庁的役割として「公用局」「刑法局」「会計局」「軍務局」「民政局」「開物局」(6局)を創設しました。
 政事府を含めこれらを「1府6局」と総称されることがあり、津田出が大断行した紀州藩の藩政改革の象徴的存在、更に明治新政府と明治陸軍の先駆け、として取り上げられますが、津田も西周と同じく、実学を尊ぶ儒学・荻生徂徠学に通じ、独学ながらもオランダ学や洋学を修めた当代一級の知識人の1人である上、佐幕側の武士として江戸幕末の混乱期を生きた人物であります。
 津田出もそういう人物であったからこそ、紀州和歌山という一地方の武士ながらも、江戸幕府、その連枝たる紀州徳川の旧来の政治体制(封建制と幕藩体制)の限界を痛感し、諸外国絡みの混乱する政局を対処できないという憂国の想いから、(西周が議題草案を記したように)、西洋諸国の三権分立をモデルとした近代政治機構を確立するための改革案「御国政改革趣法概略表」を書いたのではないでしょうか。
 いずれにしても西周が議題草案で発案した「公府と5つの事務府」、その数年後に津田出が発案した「1府6局」は、共に近代政府を大きく先取りしたという点で、(多少の相違点があるとはいえ)、酷似していることに、筆者は非常に興味に惹かれ、以上のように西周と津田出の近代政治構想を引き合いに出して紹介させて頂いた次第でございます。
 尤も、当時の国内情勢および西洋知識を豊富に有している同時期の見識者の中で、西周と津田出のみが三権分立・議会政治・近代軍隊の創設(徴兵制など)の先進的な政体構想を起案したのでなく、他にも西周の同僚である幕府開成所教授・津田真道(注意:津田出とは血縁関係はありませんよ)は、周と同じく新生・徳川政体(佐幕派)を基盤とした憲法草案の「日本国総制度」を書き上げていますし、またお馴染み土佐藩出身/海援隊隊長の坂本龍馬も、天皇を中心とし、その下に各藩主の議会政治を母体とする国家構想「新政府綱領八策」を著しています。




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 坂本龍馬も、諸侯(諸藩主)による議会政治の推進や上下の2院制の創設を、新政府綱領八策内で起案しているのは、西周の議題草案と同様なのですが、龍馬の国家構想は、議題草案と比して見れば、議会政治や2院制の事を箇条書きで紹介しているのみに止まり、各々の詳細なる紹介(例えば、組織構造案など)がされていない簡潔な内容となっております。
 新政府綱領八策の事を、良く言えば、簡潔なので誰でも理解し易い内容となっていますが、悪く言えば、今後の近代国家へと向かう日本の新国家構想からすると大雑把なものあり、額面通りに実行すると、朝廷・幕府・諸藩との間で、多々なる問題や混乱が生じる公さんが大きいです。西周のようには海外留学をせず、師匠の勝海舟に師事したことを除き、殆ど独学で議会政治の事など 近代政治マニフェストを草稿するほどの西洋事情を身に付けたのは、流石に江戸幕末の傑物とされる坂本龍馬であります。しかし、飽くまでも当時の日本国内で間接的に、西洋の議会政治の仕組みのみを見聞して学んだ龍馬では、新政府綱領八策で、「朝廷の下で、議会政治を始めよ」や「議会には上下の2院を設けよ」という、表面の事は記述できても、その詳細の仕組みまでは、書けなかったようです。
 それに比して西周は、江戸幕府公式のオランダ留学生の一員として、現地のライデン大学にて、法学の権威・フィッセリング教授から国際法や経済学、商法などを直接に学んだ知識人であり、また同教授の国際公法の口語訳本、即ち万国公法を日本国内で広めた啓蒙家でもあります。
 上記のように、直接的に三権分立・議会政治などを学んだ西周ですから、彼が書き上げた新政体マニフェスト『議題草案』は、(坂本龍馬の新政府綱領八策よりも)、三権分立や2院制、ひいては全国行政を担う政府の要綱なども詳細に書かれ、政治的混乱を最小限に抑える善後策を講じていることが分かります。
 その好例として、西洋式の議会政治を妄信するが如く(坂本龍馬は別として、当時の有識者には、これを妄信する者が多かった)、無暗に直接導入するのではなく、当時の日本国内の政治状況に適応するように・・・、
⓵「立法と行政の2権分立」
⓶「議政院では、万石以上の諸藩主を上院、藩士を下院に配して、国家方針を決議する」、⓷「全国の立法と行政の2権の元首は、旧公方様こと大君が就き、万一政治的混乱が起こった場合は、その権限を以って大君が抑える」
⓸「全国行政遂行のため5公府の役所の設立」

 といった政体改革を目指しつつも、徳川主導の政府および完全なる幕藩体制(即ち後の廃藩置県)を完全に解体することは、政治的大混乱を招くとして、諸藩の軍事や司法の権利は、暫時現状維持ということを西周は草案しています。
 西周の議題草案も、悪く言えば「中途半端な三権分立制」「旧来の徳川実権主義」となる欠点も含んでいるのですが、良く言ってしまえば、江戸幕末の日本情勢に応じた『政治マニフェスト』であります。
 西周が、只闇雲に西洋の三権分立制や議会政治制を直輸入するというのを忌避したのは、彼が有していた国内情勢、西洋事情の豊富な知識、それに合理的思考をも持ち合わせていたこともありますが、オランダ留学中の恩師・フィッセリング教授から、『日本にある古法を悉く廃して、西洋の全政体を導入するのは、却って混乱を招く』という助言を得ていたからであります。この事が、西周が議題草案を書くに当たって大きな影響を与えたことは想像に難くありません。坂本龍馬を含め日本に点在する有識者には恵まれなかった、西洋人かつ国際法学の権威から直接教えを受けるという大きな利点を西周が有していた事が、情勢の適応性に富んだ議題草案を完成させる要因となってのいたのです。
 
 以上のように、西周は議題草案の中で、旧江戸幕府は「全国行政」を担う『政府』とし、諸藩の大名やそれに属する藩士には「全国の立法」を司る『議政院』という立場を与えて国政に参加させることを起案しているのですが、もう1つ重要的存在である『朝廷、即ち朝廷之権』についての立場および取り扱いについても、周は議題草案の中で書き記しています。
 1850(嘉永)年中盤から本格的に始まった江戸幕末期の動乱は、京都に鎮座する攘夷派の総本山というべき朝廷(孝明天皇)の存在が、起因の1つとなっていることは周知の通りであります。即ち尊王攘夷派の西国雄藩や志士らが、攘夷派で固められている朝廷を旗頭として戴き、江戸幕府を討滅することを画策したことが動乱の発端となり、それまで鳴かず飛ばずであった朝廷が、忽ち政治的存在感が増大したのであります。
 「朝廷が政治的発言権を持ち、幕府と並ぶ一大政権になったことが、今日の国内情勢を招いた」という事を熟知していた西周は議題草案の中で、『朝廷には、一切の参政権や軍事権を付与しない』ことを明記しています。現在の天皇家と同じように、政治的権限は与えずに、飽くまでも日本国の象徴としてのみご君臨して頂く、という構想を西周は持っていたように見受けられます。
 尤も、参政権、独自の軍隊の保有権は付与しませんが、代々朝廷が司ってきた「元号」「度量衡」「叙爵」などの決定権の保有は引き続き認め、「神仏両方の長となる」という宗教関連の権限も認めることも、西周は起案しています。
 西周は、朝廷(それを陰で操る薩長など雄藩)と幕府間の外交折衝で苦渋を味わい続けた将軍・徳川慶喜、老中・板倉勝静など幕閣たちの姿を間近で見てきたために、江戸幕府改め新生・徳川政府(大君制)では、(これ以上の内乱を避けるべく)『朝廷勢力を政治的に無力化する』という案を、議題草案の中に挙げたのです。
 ただ参政権や軍隊の保有を認めぬ代わりに、朝廷に対する優遇策として、山城一国(約23万石)の領有を認めることを提示しています。それまで朝廷は、幕府から毎年賄料として約10万両を受け取っていましたが、山城一国、即ち京都とその周辺の土地を領有させるという経済待遇を良好にすることによって、参政権を拒否されて不満が出る可能性がある朝廷を牽制する目的がありました。敢えて簡潔に述べると、徳川政府は朝廷に対し「今までよりも経済的に裕福にしてさしあげますから、国政の事には容喙しないで下さいね。」と、お願いしているようなものであります。
 「朝廷には政治介入をさせない」という西周の構想案は、朝廷を旗頭として江戸幕府打倒を目論んでいた朝廷内の反幕派公家(岩倉具視)や西国雄藩(薩長両藩)の大陰謀を完全に無力化するものであり、それにより動乱や政治的混乱の策源を絶つという、(徳川政府から見れば)、見事なものであります。
 敵勢力から『徳川家康の再来である』と評されるほどの傑物・徳川慶喜(大君)が、西周発案の議題草案に則り、上記のように大君制の下、議政院と政府の元首となった新生・徳川政府(磯田道史先生が言われた「京都徳川幕府」)が誕生し、更には朝廷の政治力を無力化されてしまっては、天皇一統の新政権(後の明治政府)の樹立を目論む革命家たちは未来永劫、慶喜を元首とする徳川新政府の風下に立たされるばかりでなく、倒幕の大義名分をも失うことになるのであります。
 上記の事ほど、倒幕側の人々を震撼させたものではないでしょう。徳川慶喜が自身の政治顧問である西周が発案した新国家政体を実現する前に、一刻も早く倒幕を実現しなければならない、という危機感を強く抱き、その気分を以って朝廷を動かし、先手必勝での如く逆に慶喜の政治生命を絶ったのであります。即ち公家の岩倉具視と薩摩藩が画策主導した「王政復古の大号令」と「鳥羽伏見の戦い」であります。
 この後の徳川慶喜および江戸幕府の顛末は、皆様ご存知の通りでありますが、これにより西周が起案した議題草案も実現することなく、歴史の闇へと消えていった幻の新国家プランとなってしまったのです。
倒幕の主力であった薩長土肥が明治新政府を樹立して、国家運営を担っていくことになったのですが、新政権を打ち立てる前に、議題草案のような確固たる国家政体案を計画していなかったために、1868年(明治元年)からの約15年間の明治政府は、産みの苦しみと言うべき、政治的混乱に苛まれることになったのであります。征韓論問題、元勲・西郷隆盛の辞任、そして西南戦争など不平士族の反発、薩長閥の政権独占などが、新政府政体の混乱を象徴しているものであります。
 一時期、前掲の旧紀州藩が成功した藩政改革の立役者・津田出を新政府の大頭領とし、国家運営を担わせるという案(西郷隆盛が津田を推薦)も出たのですが、結局は佐幕派の人間であることも影響して、それもご破算となり、結局、1871(明治4)年に、岩倉具視や木戸孝允大久保利通など維新元勲らで構成された所謂、岩倉使節団が、今後の新国家プランの参考にするために、海外諸国を視察することになります。
 明治新政府樹立後、4年経って漸く、今後の日本の国家方針を決めるために、海外諸国の政体を視察しに行くのであります。司馬遼太郎先生は、この顛末を『盗人捕まえて縄を綯う、というようなものであり、当時の新政府の要人たちは国家の青写真(注:新国家プラン)を持っていなかった。』という意味合いの事を、著書『「明治」という国家』(NHKブックス)で書いておられます。
そして、この岩倉使節団のメンバーと使節団が出国している最中に日本の国政を預かっていた西郷隆盛を筆頭する所謂留守政府が、見識の違いから対立を深めるようになり、後の佐賀の乱や西南戦争という大内乱に繋がってゆくことになるのであります。
明治以前まで、全国規模の三権(立法・行政・司法)に従事したことが無いない上、ロクな新国家プランもない当時の旧朝廷や薩長土肥の人物たちには、政治的混乱を招くことなく国家運転手になるには無理があったのです。西周もこの様な事態を危惧していた事でしょう。
 その不手際の悪さに愛想を尽かした新政府の最重要人物である西郷隆盛が、郷里の鹿児島へ戻ってしまう、と事件が発生してしまうのも滑稽な事であります。西郷にも辛い心情や言い分もあったでしょうが、いやしくも彼は、名実と共に明治政府の大頭領、議題草案内の立ち位置なら元首という存在であり、一刻も早く政治的混乱を鎮静する役目があるのに、それに嫌気を指して政界を去るというのは、西郷どんも無責任と言えば無責任ですね。
 これも明治新政府が、議題草案のような詳細かつ実現味ある国家政体プラン、政治的混乱が発生した場合を鎮定する大君ような責任者を持っていなかったことが一因となっているのです。
 先日最終回を迎えたNHK大河ドラマ『青天を衝け』を見続けていて筆者は思ったのですが、確かに明治という世を現実に創り上げたのは、薩長土肥などの英雄たちでありますが、近代国家の経済構造や殖産興業の産業、教育啓蒙などの多方面で活躍したのは、吉沢亮さんが演じた主人公・渋沢栄一やその従兄の尾高惇忠、三井物産の益田孝、ジャーナリストの福地源一郎(桜痴)や栗本鋤雲といった人物は皆、旧幕派(佐幕)出身の人々であります。
 そして、本格的な近代政体の雛型を最初に創った西周、紀州藩の津田出も創り上げたのもやはり旧幕出身者であります。




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現在でも坂本龍馬や西郷隆盛といった新政府側の英雄たちに脚光が浴びる事が多いです。その風潮は筆者もとても好きな1人であり、大いに歓迎するのですが、新政府に破れてしまった旧幕側からも、議題草案という優れた国家政体プランを創案した隠れた偉人・西周が確かに存在したこともあった、ということも皆様に知って頂きたくて、今記事を書かせて頂いた次第であります。

(寄稿)鶏肋太郎

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