板垣退助の知られざる一面と不撓不屈の生涯~板垣死すとも自由は死せずとは言わなかった?

こんにちは、今回は明治時代に自由民権運動の指導者となり、国会開設の立役者となった、百円札の肖像にもあるように長いヒゲでもお馴染みの板垣退助(いたがき-たいすけ)をご紹介してまいります。さて、みなさんは板垣退助と聞いて、どのような印象をお持ちでしょうか?
自由民権運動。板垣死すとも、自由は死せず。現在、残っている肖像写真からも分かるように立派な髭と、いろいろな個性を持っている偉大な政治家ですが、今回はそんな板垣退助の新たな一面を前後編に分けてご紹介していきます。
まずは、そんな板垣の幼少期からまいりましょう。
 
 天保八年(1837)5月21日、板垣は土佐藩、現在の高知県にある高知城下において上士(上級武士)の乾正成(いぬいまさしげ)の嫡男として、生まれました。幼いころは幼馴染であり、のちの盟友で大政奉還を徳川慶喜に進言した、後藤象二郎と毎日のように悪ふざけに勤しむ腕白坊主でした。ですが、自分の屋敷の前で乳飲み子を抱えながら物乞いをしていた女性に、姉の着物一枚を与えるなど弱者を慈しむ心にあふれた心優しいところもある少年でした。
当時の土佐藩の上士、下士(郷士とも)には、下士は雨の日でも傘をさしてはいけない。上士の履物は高下駄でしたが、下士は、草履しか許されないなどの身分での格差が全国でもトップクラスに激しい社会であったので、この退助の行動は、異例でありました。姉はこの行動に、当然激怒しましたが、本人は意に介さず、この件を聞いた母親も退助の行動を立派だと言いました。のちの板垣の将来を暗示してる部分があります。そんな少年時代を過ごしていた退助ですが、
時代は彼を室戸沖の荒波のようにどんどん、飲み込んでいくのでした。

 そんな退助の姿をしり目に世は混沌と激動の目を露わにしていきます。退助は文久元年(1861)に藩から江戸留守居役を仰せつかります。この役目は江戸に滞在しながら、江戸の藩邸の守護にあたったり幕府の役人や他藩の留守居役との折衝を行う、極めて重要な役目でありました。現代に置き換えると幕府や諸藩を国とするならば、諸藩の江戸藩邸は大使館のようなものであり留守居役は、外交官のようなものでした。
そんな折、国元の土佐では、一大事が発生しました。白札郷士(上士と同じ待遇が許された郷士)の武市半平太が中心となって、結成された尊王攘夷過激派、土佐勤王党による、土佐藩参政の吉田東洋の暗殺でした。
この場面は、武田鉄矢さん原作の、お~い!竜馬でも描かれ、剣の実力者で日ごろから「上士は贅沢をしろ、郷士は質素にしろ。」あった東洋に暗殺者が手間取り、返り討ちにされそうになったところをふいに現れた、岡田以蔵が襲撃し、使命を果たす場面や、東洋の首を暗殺者が自分のふんどしにくるんで持っていくシーンがあまりにも当時の身分の格差や、東洋の日ごろの態度にに対する皮肉を物語ってるなとひしひしと感じたものでした。この知らせを聞いたとき、土佐の役人が動揺しているのを聞くと退助はその様子に怒り、他の藩士に出した手紙の中で
「東洋のような賊徒の首を切ることにより、国も安定するだろう。」とお~い!竜馬のときの、訃報に接し、仇を打とうとする後藤象二郎を制するシーンは創作だったんだなとむなしく思いました。

嘉永6年(1853)6月3日、相模国、現在の神奈川県横須賀の浦賀沖にペリー率いる黒船が来航。安政2年(1855)に発生した安政の大地震。安政5年(1858)の将軍継嗣問題や、ハリスとの日米修好通商条約蟄居問題に端を発した、大老井伊直弼による安政の大獄。その安政の大獄に対する、水戸藩脱藩浪士らが中心となって起こした、万延元年(1860)に桜田門外の変により井伊直弼が暗殺されるなど、日本は激動の時代を送ることになりました。
そんな中、退助は土佐藩上士の例にもれず、藩の要職を歴任していきました。なお、幼少期からの腕白坊主ぶりも健在で度々、喧嘩に明け暮れては、藩から譴責を受けたり、ひどいときは、係争にかかわり、廃嫡(嫡男でなくなり、家督相続の権利を失うこと)されるなどさんざんな目にも遭いました。が、廃嫡されている間にも神田村(こうだむら)というところで地元の百姓の手伝いをするなど、身分の差を問わず、付き合いを広げていきました。そんな退助の姿や、才覚を惜しんだのか、藩も彼を許し、また郷士の中岡慎太郎、長州藩の久坂玄瑞ら土佐藩、他藩問わず、そうそうたる顔ぶれと交友を深めていきました。

 吉田東洋の暗殺をきっかけに、土佐は武市半平太率いる、土佐勤王党が実権を掌握するようになり、退助も土佐勤王党の幹部らとよしみを通じるなどこのころは勤王志士として暗躍しておりました。退助もこの動乱の時代にのちの政敵の一人である、大久保一蔵(のちの維新の三英傑の一人、大久保利通)と出会っています。この時の大久保から見た、退助の印象について、ほかの者への書簡で、「退助は、正義の人だ。」と褒められておりました。尊王攘夷が叫ばれる激動の時代の歪み(ひずみ)か、のちの展開を思うと意外なものでした。それからしばらく、土佐に大いに影響を与える展開がやってきました。
江戸幕府でも異彩を放っていた旗本、勝海舟が、土佐前藩主の山内容堂、そして退助のもとを訪れたのです。当時の龍馬は前年に土佐を脱藩しており、海舟のもとで海軍や航海術、世界情勢などを学んでおりました。海舟は容堂に対して、龍馬の才覚を買い、自分に免じて、脱藩の罪を許すように進言しました。
この時の海舟は、旗本とはいえ、幕府の軍艦奉行並という、重役でした。その海舟の話を容堂も無下にするわけにはいかず、許すことになり、さらに海舟の私塾に土佐藩士が入門するのを許可しました。
ちなみに、退助と龍馬に関していえば、退助が晩年に「今日、私があるのは坂本先生と中岡慎太郎先生のおかげです。」と語っていましたが、実際には生前、面識はありませんでした。

 退助も歴史の表舞台へと訪れる日がやってきます。慶応3年(1867)5月21日、退助は、薩摩藩家老、小松清廉(帯刀)宅で、薩摩と土佐だけではなく、日本の将来がかかった密約を結びます。世にいう薩土討幕の密約です。この密約は、それまで土佐藩が幕府に対して穏便且つ、曖昧にしていた態度を一新するものでした。まず、とられたのは、土佐藩の軍制改革でした。薩摩や、長州、肥前、などの雄藩ではすでに軍制改革が行われ、薩摩は薩英戦争以後イギリスと交友関係を持ち、長崎の武器商人、トーマス・グラバーから銃を買い付けたり、長州も奇兵隊や長州藩諸隊などの当時最先端の軍学を叩き込まれたり、肥前藩は、戊辰戦争で猛威を振るったアームストロング砲を製造したと云われるほど、他藩の追随を許さぬほど軍制改革が進んでいたのに対し、当時の土佐藩は、弓矢を使っているなど、大きく後れを取っていました。
退助は、「弓隊は、時代遅れで効率が悪い。」と言い、弓隊を廃止し、西洋のライフルを買い揃え装備させた銃隊を編成し、2年前に弾圧されていた、土佐勤王党の勢力の赦免を行います。これによって土佐藩には討幕派が大勢を占めていったのです。
それと同じころ、今度は薩摩と土佐の間で、西郷隆盛ら、薩摩藩の代表と後藤象二郎ら、土佐藩の代表で坂本龍馬と、中岡慎太郎が前年に結ばれた、薩長同盟のときと同じように立会人になり、新たな同盟を結びます。
薩土盟約です。この同盟は、板垣が推し進めてきた武力討幕とは異なり、平和裏に幕府による政権支配を終わらし、諸藩と徳川家が合同で天皇を中心に合議制で日本を収めていこうとする、画期的なものでした。
それからしばらくして、後藤象二郎から容堂のもとへある建白書が献策され、それが受理されました。その受理された建白書はときの徳川幕府15代将軍、徳川慶喜のもとへ献策され、慶喜はそれを実行いたしました。
それがかの有名な大政奉還でした。
これまで軍制改革などを進めるなど、武力討幕派であった退助はこれに断固反対の立場でした。
「こんなもんに、何の意味があるんだ!将軍は話し合いでなくて、武力で変えるもんだ。」と大いに反対しましたが、ついに覆らず、逆に全ての職を解かれてしまったのでした。
ですが、時代の流れを自らのもとに引き込もうとする勢力がありました。それが、公家の岩倉具視や薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通などの大政奉還に納得しない者たちでした。まず、王政復古の大号令を朝廷から出し、新政府の樹立と幕府、摂政関白の廃止、そして小御所会議にて、慶喜の辞官納地(慶喜の官位である、正二位内大臣の解職と徳川家の領地返上)を要求したのでした。これは新政府から慶喜と徳川家を徹底的に排除するのが見え見えの要求でした。結果的に大政奉還で政治体制を穏便に変革しようとする土佐藩と後藤の思惑は頓挫したのでした。それからはどんどん旧幕府方と新政府方との小競り合いが続き、とうとう足掛け2年かかる、戊辰戦争へと突入するのでした。それから間もなくして、京都郊外の鳥羽・伏見で旧幕府軍と新政府軍との戦端が開かれます。これを見た土佐藩首脳はやむなく覚悟を決め新政府軍として参戦を決めます。このとき土佐藩の主力部隊である迅衝隊(じんしょうたい)を指揮することになったのが、失脚していた退助でした。退助率いる、迅衝隊は旧幕府軍を蹴散らしていきます。
退助率いる軍は、次の目標として、甲府を目指しました。
そんな折、退助はふと思い出しました。甲府と言えば、この武田信玄が治めた地。そして、自分の先祖はその武田信玄の家臣で、上田原の戦いで信玄を逃がすために壮絶な討ち死にを遂げた、板垣信方
そうなのです。彼は、大河ドラマで千葉真一さんが演じていたことで有名な、かの猛将、板垣信方の子孫なのでした。
そのころ、甲府は幕府の天領(直轄地)でしたが、圧政に苦しんでおり、信玄時代の治世を懐古する風潮が根付いていました。彼は、これを何とか利用できないかと思い、そして周囲の助言もあり、
板垣退助と改名しました。
板垣は、到着した甲州勝沼、ブドウの産地として有名な山梨県甲州市勝沼において、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(新選組から改名させられた)を完膚なきまでに叩きのめし、その有名を大いにとどろかせたのでした。
いかがでしたでしょうか、板垣退助の前半生。若いころは生粋の武闘派だったんですね。意外でした。




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 甲州勝沼の戦いで近藤勇ら甲陽鎮撫隊を破った、板垣退助率いる迅衝隊(じんしょうたい)。その報せを聞いた甲府の領民たちは大いに喜び、退助が戦国時代に武田信玄の忠臣として活躍した、板垣信方の子孫と知ると、官軍の兵たちを大歓迎しました。それだけでなく甲府のある甲斐国、現在の山梨県内に在住していた旧武田遺臣の末裔である神主や、村役人である長百姓(おとなびゃくしょう)、浪人たちが官軍の下で一致団結し断金隊(だんきんたい)や、護国隊(ごこくたい)などが結成されました。これによく似たのが幕末の長州藩において馬関戦争で故郷の危機を救うために身分を問わず結成された、奇兵隊や長州藩諸隊です。もしかしたら、甲府の住民たちの中にも今回の官軍や奇兵隊などに代表される民衆の力を持って、権力に立ち向かおうとする心意気に勇気づけられた部分も大いにあったと考えられますね。
ちなみにこの断金隊の隊長は美正貫一郎(みしょうかんいちろう)。彼は戊辰戦争の最中で戦死しますが、その跡を継いで隊長となった尾崎行正は、のちに大正デモクラシーの立役者になり、議員当選回数と国会議員在職最長の日本記録を持ち、憲政の神様と謳われた尾崎行雄の父です。ここでも後の歴史の展開を考えれば、ドラマチックなものといえるのではないでしょうか。
 慶応元年(1868)6月。甲州での勝利と自らの影響力に自信を深めた板垣率いる、迅衝隊は余勢を駆って連戦に次ぐ連戦を重ね会津へとやってきました。この会津では会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)率いる白虎隊に代表される会津藩兵たちの頑強な抵抗に遭いながらも鶴ヶ城(会津若松城)を陥落させ、9月22日には降伏させることに成功しました。官軍への降伏のための式典に赴いた会津藩主松平容保はもともと旧幕府方でも指折りの主戦派で、官軍の方でも京都守護職であった彼の麾下の会津藩兵や新選組に同志を討たれた者も多かったため、会津藩士の中には、「自分の主君が罪人のように後ろ手で縛られ、縄目の恥辱を受けるのではないか?」とヤキモキしてる者もおりましたが、板垣は容保や会津藩士の心情を慮り、容保が城から輿に乗って出てくるのを許し、さらには官軍の首脳に会津藩への寛大なる処置を訴えかけました。これには会津藩士たちも感激し、その後多くの会津人が土佐に感謝のつもりで訪れたと言います。
 こうして板垣は勇名をあげました。ですが、彼は会津の領内の異様な光景を目の当たりにし、危機感を覚えます。
それはこの会津戦争において、容保や会津藩士たちを中心とする武士たちは死に物狂いで戦っていたのに領民たちはそれに呼応して、官軍に抵抗するどころか、ダンマリを決め込み、さらには敵であるはずの官軍に対し物資の徴発に快く応じる者もいたり、会津藩降伏後に新政府から東京での謹慎処分を下された、藩主容保が息子と一緒に東京に送られる姿を藩士たちは沈痛な面持ちで見ているのに対し、ほとんどの領民が無関心を貫き、野良仕事に勤しんだり、極めつけは会津藩降伏からわずか10日余り後の10月3日に今まで会津藩に対し、不満を持っていた領民たちによる世直し一揆、ヤーヤー一揆が勃発したのでした。
それもそのはず、会津藩は藩主容保の京都守護職在任中にかかる費用を領民への苛酷の年貢で賄い、さらには会津戦争での戦費調達を名目に徴発したり、戦況を有利にするため領内の一部の村々を焼き払ったりしたため、会津藩に対し恨みはあっても、恩はまるでなかったのです。
板垣はこの戦闘において、武士階層とそれ以外の階層にとっての、この会津戦争に対する意識の温度差を痛感するとともに、近い将来に武士や領民などの区別なく誰もが政治に参画していける社会の早期実現を決意します。
こうして板垣は戊辰戦争で軍人としての武名を得るとともに、後の自由民権運動につながる下地を作ることができたのです。
 明治2年(1869)5月18日、五稜郭に籠っていた榎本武揚を筆頭とする旧幕府軍の降伏により戊辰戦争は終結。その1か月後、全国の藩の人民と土地を朝廷に返上する、版籍奉還。その2年後の明治4年(1871)7月14日、全国の藩を廃止し、県を置き、名実ともに260年余り続いた幕藩体制を終結させた、廃藩置県と明治新政府は次々に中央集権国家体制を推し進めていきました。板垣もこれらの功績により新政府で西郷隆盛や、木戸孝允大隈重信らとともに参議に任ぜられ維新の元勲の一人として数えられるようになりました。ようやく安泰な地位と名声を得たかに見えた、彼ですが転機となる出来事が起きました。きっかけは政府にもたらされた、一つの報告でした。それは日本の隣に位置する、朝鮮王国の日本に対しての鎖国体制と朝鮮国内での対日感情の悪化と、国王の父である、大院君(だいいんくん)が国内に出した、「日本は野蛮な民族の国であり、獣と同類である。そのため日本人とかかわりを持てば死刑にする。」という布告でした。これを聞いた板垣は激怒し、こうなれば朝鮮に出兵して武力で開国するのも止むなしと、声高に唱えましたが政府の重鎮である西郷隆盛はこれに難色を示し、まずは武力で解決するのではなく、自分を全権大使として派遣し、それがおじゃんになってからでも遅くはないのではないかということで、一旦は決着しました。
ですが、この決定には大きな欠陥があったのです。




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それは岩倉使節団として、欧米視察と幕末に結ばれた、不平等条約の改正のために旅立った右大臣の岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らの存在でした。西郷らも、岩倉、大久保の存在を無視できない立場にあったため帰国した彼らと朝鮮との問題について話し合います。
西郷や板垣の朝鮮使節派遣に岩倉、大久保、木戸らは「今は、国内の統治に集中すべきであり、朝鮮に関わってる暇はない。」と真っ向から反対し会議は紛糾します。彼らをまとめる立場にいた太政大臣、三条実美は病に倒れ、反対派の岩倉が代理となり、
天皇の名のもとに使節派遣の延期を決定します。これに反発した西郷は明治6年(1873)10月、参議の職を辞し、鹿児島へと下野しました。
板垣や大隈重信、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎も追随しました。これらの影響は大きく、西郷や板垣らに同調して多くの官僚や軍人が職を辞し、国元に帰っていきました。世論も西郷や板垣らの行動を支持しました。
これが明治六年の政変の内幕です。この政変の後、世論が政治に全く反映されない状況に怒り、板垣は後藤や副島らとともに明治7年(1874)1月、愛国公党を結成し民選議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を政府に提出し、国民の声を政治に反映させるための国会の設立を要求しました。
この建白書は政府に時期尚早と却下されましたが、板垣はこれに挫けず愛国社、立志社と意見の発信源は変えながらも憲法の制定や、議会開設、言論と集会の自由など国や国民にとってのあるべき姿を民衆と政府に訴えかけていきました。
 建白書を却下されても、全国を渡り歩き、自由と国民の権利を国民に訴える板垣でしたが、政府はそんな板垣の姿とそれに賛同し、高まっていく自由民権運動を脅威に感じ、様々な言論統制を布いていきます。明治8年(1875)6月に相次いで、成立した新聞紙条例、そして讒謗律(ざんぼうりつ)です。これらの法令は政府批判と言論の自由を大きく取り締まる法律です。政府の許可なく新聞・雑誌の発行を禁じ、政府や政府首脳の批判の声を強引に閉じ込める狙いがありました。ちなみに讒謗というのは悪口を言うという意味らしいです。こうした政府の圧力がどんどん強まる中、士族の政府への反発は日増しに強くなっていきました。前年の江藤新平らによる佐賀の乱。明治9年(1876)に相次いで起きた、山口の萩の乱、福岡の秋月の乱、熊本の神風連の乱。そして明治10年(1877)9月に西郷隆盛が担ぎ出され、発生した現時点で日本最後の内乱、西南戦争と不平士族の反乱が発生しますがどれも政府によって鎮圧されたのでした。その後、翌年の5月14日に東京の千代田区紀尾井町で発生した、紀尾井坂の変で以前から不平士族の恨みを買っていた、ときの内務卿である大久保利通が暗殺されるなど実力を用いての大事件が起こっていました。
このとき、板垣も決起を呼びかけられていたのですが、彼はこれに対し、
「最早、武力をもって世の中を変える時代は終わった。これからは言論によって世の中を変えるべきだ。」と諭し、あくまで言論の力をもって世の中に訴えかけるべきだという姿勢を貫きます。
これにより民衆の間で議会の早期開設の声と、板垣の声望はどんどん深まっていったのでした。
そんな彼を政府は野放しにせず、密偵を放ちその動向を日夜問わず、見張っていきました。ですが、彼の元には多くの同志が集まり、その中には竹内綱(たけうちつな)という人物がいました。この人物は九州で炭鉱の経営に成功し、明治10年(1877)に西南戦争に乗じて立志社が政府転覆計画を企てたという立志社の獄では、小銃と弾薬を秘密裏に用意したという疑いをかけられ、禁獄1年の刑を受けました。彼は刑を終えた後も、板垣を支え続け、衆議院議員となり、実業界でも大いに活躍しました。板垣にとってはなくてはならない存在だった彼ですが、実は彼の息子はのちに外交官から外務大臣、戦後に日本がアメリカの占領から独立することになった、サンフランシスコ講和会議で演説をした内閣総理大臣で、バカヤロー解散で有名な吉田茂です。これは明治と昭和の偉大なる、政治家の一種のランデブーが起こったわけですね。同志と世論に支えられた板垣は舌鋒鋭く、明治14年(1881)に発覚した北海道開拓使長官の黒田清隆による政商、五代友厚への官有工場の払い下げを批判していきます。
これらの世論と板垣ら自由民権運動家の勢いにさすがの明治政府も根負けし、ついに同年10月に9年後の明治23年(1890)に国会を開き、欽定憲法(天皇の命によって制定された憲法)を制定することを約束した国会開設の詔(みことのり)を出す事態になりました。
 国会開設と憲法の制定を政府に認めさせた板垣でしたが、彼の脳裏に強い、危機感を抱かせました。「このまま政府の言うように憲法や国会ができるのを見ているのみでは、政府の恣意的な憲法や議会が出来、国民の声を反映させるには程遠い政治になるのではないか。」そのため、普通選挙の実施や真に国民の声を基に成立する国会の開設を訴えかけるため、政府が出していた集会条例によって、なかなか、演説の機会を得られなくても、それに負けてなるものかと、板垣は全国で演説を行い、国民に訴えかけ、それと並行して、同志に自分たちで憲法を作ろうではないかと、呼びかけていきます。この頃の板垣は何か神がかったものを感じさせます。そして、明治15年(1882)4月6日。いつものように演説を終えた板垣は、会場の岐阜県の岐阜神道中教院をあとにして、帰途に就こうとしました。その時、刺客が現れ「将来の賊!」と叫び、短刀を振りかざし板垣に襲い掛かり、板垣の左胸を刺突しました。板垣はこのときとっさに刺客の腹部に肘で当身を入れました。刺客は尚も板垣を狙いましたが、事態に気づいた板垣に同行していた内藤魯一(ないとうろいち)によって刺客は取り押さえられ、重傷を負った板垣は同行していた竹内綱に介抱され、出血しながらも「板垣死すとも、自由は死せず」と叫びました。この教科書にも掲載されるほど、有名な発言ですが最近まで本当は言っていないのではないか。という説がありました。突然だったため、板垣自身は何も言えなかった説や、本当は傍らにいた内藤が発言したのを新聞が板垣の発言ということにしたという説や、板垣は刺された直後、「痛い、医者を呼んでくれ。」と土佐弁で発言したなど、様々な説が流れていました。調べてみたところ、当時の新聞や後年の板垣の著書には言い回しは違えど、それらしきことは発言したというのが本当らしいです。
敵である政府が放った密偵の報告書でも「私が死んでも自由は死なない」と板垣が発言したという資料が残っているので発言は真実だった。というのが真相なようです。
いやあ、今聞いても本当に立派な発言ですね。命を懸けてないととっさには出ませんよね。さて、この板垣、刺されるという一報を聞いた自由党本部の、後藤象二郎は板垣が殺されたと勘違いし激怒。すぐに現場に向かおうとしますが、無事の一報を聞くと落ち着き、別の者が向かいました。一方、政府もこの知らせが届くと閣議は中止し、首脳の山県有朋明治天皇に事の次第を上奏すると、直ちに勅使(天皇の使者)派遣を決定し、御手元金(天皇のポケットマネー)から、
300円(現在の価値に直すと150万円)を下賜されました。そして、もう一人。当時、愛知県病院長が自らの一存で現場に赴き、板垣を診察しています。彼は板垣に、「閣下、ご本懐でしょう。」と問いかけました。この発言で彼の只ならぬ才能を見抜いた板垣は、「彼を政治家にできないのが残念だ。」と発言しました。そうなんです。この医師は後に南満州鉄道総裁、逓信大臣、拓殖大学総長を歴任し、関東大震災後には内務大臣兼帝都復興院総裁(帝都復興院総裁)として、震災からの復興にあたった、あの後藤新平だったのです。ここでも将来、活躍する人物との邂逅があったのでした。
尚、板垣は犯人である小学校教員の相原尚褧(あいはらなおふみ)の減刑を嘆願し、後に彼が謝罪に訪れた際も、これを許し、「君の行動は国のことを考えて、実行した行動だから謝る必要はない。もしも今後、私に間違った言行があるならばもう一度、刺してくれ。」と発言しました。自分を殺そうとした男を許しこの後、北海道へ開拓のため渡るという目標に対し、エールを送った板垣の心意気には、男気というものを感じられずにはいられません。
 襲撃事件にも怯まず、自由民権運動を広げていった板垣。その功績を買われて、日本初の政党内閣となった第一次大隈重信内閣では、内務大臣として入閣し、腕を振るおうとしましたが、元から板垣の自由党と大隈の進歩党とでは、そりも合わず、内紛が起こり、先に述べた迅衝隊隊長の息子で文部大臣の、尾崎行雄が当時、世間に蔓延していた金権政治を批判した、「もし日本が立憲君主制ではなく共和制になり、大統領制となればおそらく三井や三菱のような財閥が候補者となるだろう。」と発言し、宮内省や枢密院、貴族院などの猛バッシングを受け、辞任せざるを得なくなった共和演説事件(きょうわえんぜつじけん)をきっかけに内閣総辞職を余儀なくされました。その後は政界から引退し、著作活動に精を出し、大正8年(1919)7月16日、肺炎により83年の激動の生涯に幕を閉じました。
民意を政治に反映させるため、自らの家屋敷や私財を売り払い、自由民権運動に身を投じたため、伯爵の爵位を授けられ、華族の一員でもありながら晩年は経済的に困窮し、維新の功により拝領した備前長船盛重という名刀まで売ろうとした板垣でしたが、遺言では爵位の地位を返上し、華族ではなく市井の人間として生きよと言ったため、息子は様々な恩恵に与ることのできる華族の地位を返上しました。これは生前、板垣が天皇のもと国民一人一人は平等な立場であり、華族のような特権階級はこの心情に矛盾していると批判しました。板垣自身も爵位につくのは、反対の立場でしたが再三再四、頼まれたため仕方なくついた事情があり、政界引退後に「全国の華族はその地位を返上せよ。」とまで言うほどでした。
板垣は最後の最後まで、清貧な人柄でみんなに一目置かれた、不世出の自由民権運動家だったのです。
 板垣は、自由民権運動家、政治家として大いに政治と社会に強い影響を残しましたが、実はそれだけではないのです。岐阜での襲撃事件ののち、国会開設の視察のため、後藤象二郎とともにフランスへ赴いた際にはルイ・ヴィトンのトランクを購入し、そのトランクは現存する日本人が購入した最古の品として今に伝わっています。また、彼は大の相撲愛好家でもあり、自宅に道場を開き、多くの力士の育成にあたり、大相撲の二所ノ関部屋の源流にあたり、そこから横綱の玉錦、大鵬。関脇から力士を廃業し、後に日本プロレスの父となった力道山などが巣立って行きました。これだけでも、すごいものですが戦前に存在した国技館の設立と命名にも携わるなど、近代の大相撲にも影響を残したのでした。
板垣は国会議事堂内に代表されるように様々な地で、銅像になるほど顕彰されています。これもひとえにその功績と人柄が為すものではないのでしょうか。彼のような人が現れるのを期待したものですね。
 いかがでしたか。板垣退助の生涯は、まさに波瀾万丈。
これほど、利他主義の権化とも云える方は人類史においても珍しいモノでしょう。




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今回もご覧くださり、ありがとうございました。これからも歴史上の出来事を執筆して参ります。
ここまでお相手は飛びつき式ショーイチでした。次回もお楽しみに。

(寄稿)リストクラッチ式ショーイチ

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