和魂洋才と知る欣びを旨とした江戸末期の先覚者たち

 約260年の世界史上でも稀に見る長期平和時代を謳歌した江戸期には、相撲・歌舞伎・落語・浮世絵など日本独自の文化芸術が開化し、また食生活面でも、蕎麦・寿司・天婦羅・鰻料理など現代における和食のルーツが誕生。経済流通面でも、江戸中期(18世紀初頭)頃になると、北は蝦夷地~南は九州を含めた西廻(日本海)と東廻(太平洋)の海運業が盛んになり、日本各地の産物や材料が北前船(俗に言う千石船)によって運搬され、それらが農漁業・商工業に更に活かされ、より日本国内の産業および文化が洗練されてゆく時代でした。
 しかも敬服してしまうのは、相撲や浮世絵、寿司などの現代でも海外に誇れる芸術・食文化、その文化産業向上の礎を支えていた流通業を担った海運業は、(幕府や諸藩という官に依存することなく)有名無名の庶民たちが主導していたことであります。そういう意味では、幕藩体制という武家社会を主として語られがちな江戸期は一面、多くの無名の庶民たちが造り上げた文化産業の時代でもあったと言えます。



 
 人間を教化するために必要不可欠な学問/教育面では、江戸期の事実上の中央政府の役割を果たしていた江戸幕府(徳川政権)は、官学として儒教、その中でも特に「朱子学」を旗本子弟たちに奨励しましたが、江戸中期になると形而上(不透明)な理屈が多い朱子学を批判した幕府お抱え学者・荻生徂徠とその弟子である太宰春台が主となって立ち上げた「経世論」(徂徠学)も登場。また知性のみを磨くことを良とする朱子学と同じ儒教から派生しながらも、認識と行動が不可欠であると説いた「陽明学」も江戸期を通じて盛んでした。そして、この陽明学が江戸幕末期に活躍した偉人たちに多大な影響を与えたことは有名であり、備前松山藩を立て直した山田方谷、鬼才・佐久間象山、長州の吉田松陰、薩摩の西郷隆盛など高名な人物は陽明学の信奉者でした。
 以上の朱子学・経世学・陽明学といった思想的学問は、主に武士階級で学ばれたものですが、他にも日本独自の数学『和算』が江戸期に確立されたことも、江戸の学問分野をより一層重厚な物としたことは間違いありません。
 前掲の山田方谷といった崇高な思想家であると同時に、数理にも明晰な合理主義者であるという天才を輩出される風潮の素地になりました。因みに西郷隆盛も、若年期は薩摩藩の郡役所に勤める下役で、毎日算盤(ソロバン)を弾いて米穀などの計算をしていた経験があるので、隆盛は生涯数学の達人であったという逸話もあります。
 やはり山田方谷や西郷隆盛といった偉人は、恐らく儒教などで学んだであろう高貴な思想、そして計数に明るい合理主義的思考の両方がバランス良く備わっていたからこそ、歴史上で大業を成し得たのだと思います。NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である渋沢栄一もその「志と合理主義、並外れた計算力」を兼ね備えた偉人であったからこそ、日本の近代経済産業を確立するほどの大事業を成し得たのであります。栄一本人も、著書『論語と算盤』で、志と計理のバランスの重要性を説いています。



 山田方谷と渋沢栄一は、元々士分階級の出身者ではなく農民出身者であることは有名ですが、その庶民階級(農工商)の教育では、町内あるいは村内にある寺に通って読み書き・計算の基本をお坊様や物識先生に習うのが常でした。いわゆる「寺子屋」教育であります。
特筆すべきことは寺子屋に使われた教科書(往来物)も種類豊富であり、南北朝期に成立したと言われる「庭訓往来」のような初級社会学教科書もあり、実業面の往来物には「農業物(農業往来)」「大工物(大工番匠往来)」「商家物(商売往来)」の各職種を専門的に扱った往来物が子供達に親しみ読まれ、彼らの進路に役立ち、成長した彼らが農商工の各部門の新たな担い手になってゆくことで江戸期の産業発展に貢献しました。
 少年期に寺子屋で習った庶民階級の出身者の中で後世に大きな足跡を遺した偉人として、真っ先に思い浮かべたのが、筑前久留米の鼈甲細工師の子供として誕生した天才発明家『田中久重(田中近江とも。1799~1881、通称:「からくり儀右衛門」)』であります。彼は若年の頃より「からくり人形」や「万年自鳴鐘(万年時計)」の創作で非凡の才能を発揮し、江戸幕末期の技術大国・佐賀藩(藩主:鍋島閑叟)に技師として招かれ、日本初の蒸気機関車と蒸気船の両模型を創作するという快挙を成し遂げています。
 田中久重は晩年(明治期)になると、東京に上京。京橋区南金六町(現在の中央区銀座8丁目)で電信機器関連の会社・田中製造所を創設。久重死後、田中製造所は芝浦に移転し、東京芝浦電気株式会社と改名。これが現在でも有名な大手重電3社の1つである『株式会社東芝』(即ち、東京芝浦電気)であります。
 現在の電器産業の主力を担う東芝の礎を築いた天才発明家・田中久重でありますが、彼の非凡な発想力や創作力が誕生したのは、彼が幼少期に通っていた寺子屋での教育であります。よく同級生から筆記用具を盗難された久重(儀右衛門)少年は、それを防ぐために独創で筆箱を鍵付き細工として完成させ、周囲を驚かしたことが、後の天才発明家・田中久重の原点となっているのであります。大袈裟に言ってしまえば、江戸期の一般的の教育現場であった寺子屋が田中久重という1人の天才を産んだことは事実であり、日本独特の技術と文化的象徴である「からくり人形」の創作、西洋伝来の最新技術の結晶というべき「蒸気機関」をも造り上げた田中久重も、今記事の表題にある通りの「和魂洋才の先覚者」の1人と言うべき存在であります。

 先に西洋伝来、と記述させて頂きましたが、皆様よくご存知の通り、日本の江戸期は16世紀初頭(徳川家康の生存期)と19世紀中盤(江戸幕末期)を除けば、「オランダ(ネーデルランド)」「中国(清王朝)」の2ヶ国以外の諸外国と国交は断絶していました。即ち有名な「鎖国」(海禁政策)であります。
 拠って江戸期の西洋伝来モノというのは、当時海洋国家の一流国であったオランダからの舶来品を意味するのですが、この西欧の標高が低い国家から来る文物や技術が江戸期の日本社会に多大な影響を与え、特に江戸幕末~明治初期にかけての原動力の根源となっていくのであります。
 江戸中期の享保頃(18世紀初期)の江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が、禁教のキリスト教関連以外の洋書を解禁したことが契機となり、西洋医学や化学関連の文物が長崎出島を経て輸入されました。余談ですが、徳川吉宗が海外から書物以外に輸入した物として有名なのが、西洋馬(アラブ種)、そして巨大なインド象も輸入し、江戸まで曳いて来させて世間を瞠目させたのはこの頃であります。



 江戸幕府の監視と検閲の下とは言え、西洋の文物が輸入されたことにより、徳川吉宗政権以後の安永期(18世紀後期)には、越前小浜藩の奥医師・杉田玄白(1733~1817)」と豊前中津藩の藩医・前野良沢(1723~1803)」、玄白と同じく小浜藩の医師・「中川淳庵(1739~1786)」、幕府奥医師の家柄である「桂川甫周(1751~1804)」たちが主要メンバーとなり、18世紀のドイツの解剖学者・ヨハン・A・クルムスが著した解剖学書・「ターヘル・アナトミア」(オランダ語版)を原本とした日本初の本格的な西洋医学翻訳書解体新書を苦心惨憺の末に発行。この一大作品が、後の蘭学ブームの火付け役となったばかりでなく、前野良沢と杉田玄白の弟子の1人であった大槻玄沢、玄沢の弟子の1人である中天游、更に天游の弟子であった緒方洪庵と続く当代切っての蘭方医や蘭学者にも大きな影響を与えたのです。
 緒方洪庵の弟子に、福沢諭吉・村田蔵六(のちの大村益次郎)・橋本左内・長与専斎・佐野常民といった江戸幕末~明治期(近世~近代期)にかけての啓蒙活動・軍事・医療厚生に大きな足跡を遺した偉人・先覚者らが多数輩出されたことを思うと、江戸中期の杉田玄白・前野良沢たちが著した『解体新書』が発火点となった蘭学という大火事は、後世の日本の姿を(良い意味で)大変貌させてしまったと言うべきではないでしょうか。
 もう1つの杉田玄白と前野良沢らの偉大さとして挙げられるのが、彼らが解体新書の執筆中、未知で難解なオランダ語から日本語(漢字)に翻訳する、即ち西洋医学にはあるが東洋医学(漢方医学)には皆無であった概念が発生した場合、新たな日本語を発明したことであります。
 
 杉田玄白の言によると『精魂をすり減らして』(「蘭学事始」)翻訳していった例えば現代医学用語でも使われている『軟骨(蘭:kraakbeen/カラカベン)』『動脈(slagaders/スラクアーデルズ)』、そして『神経(zenuwen/セイミュー)』であります。『神経』という熟語は、医学界に留まらず我々の日常会話の中でも使われているほどの馴染みの深いものですが、これも杉田玄白と前野良沢らが発明したのであります。
オランダ語訳の医学書・ターヘル・アナトミア内に書かれてあったzenuwen/セイミューを、杉田玄白らがどの様な経緯で『神経』という熟語を創造したのか?
 zenuwen、即ち人間の五感を司るために全体内を走っている腺という意味を伝える概念や熟語は、当時の日本医学の主流であった漢方医学や鍼灸の中にはありませんでした。そこで杉田玄白らは、全体内を走っているzenuwenが、漢方医学にある体内の気の流れを表す概念『神気経脈』(経絡と経穴)に似ていることに因んで、『神経』という新熟語を創造したのであります。
 筆者がこの語源を漸く知ったのは、2018年のNHK正月時代劇『風雲児たち〜蘭学革命篇〜』(原作:みなもと太郎先生 脚本:三谷幸喜先生)を見た時であり、片岡愛之助さんが演じる蘭化(蘭学の化物)こと前野良沢が仲間の杉田玄白(演:新納慎也さん)たちに神経という新熟語を披露していた場面では、只々思わぬ宝物を見つけたような感動を覚えました。



 杉田玄白と前野良沢らが、現在のように翻訳機能や辞典が無い不自由な語学環境の中で、天文学的な単語や熟語で、しかも外国語で書かれてある医学書を読み解き、翻訳していく難事業に挑み、その中で神経や動脈といった現在でも馴染みが深い熟語を編み出すことができたのは、彼らが長年医者として培ってきた見識や感性、そして「漢方医(漢文学)」に関する豊富な知識を基礎としていたからこそ、「蘭方医(西洋語学)」を読み解くことができたのであります。
 即ち杉田玄白と前野良沢には、長年修養してきた漢学や漢方関連の知識と語感という優れた基礎があったからこそ、日本初の本格的な西洋医学訳書である解体新書という後世に残る壮大な建築物を建てることができたのです。
 因みに杉田玄白晩年の著書『蘭学事始』に拠ると、当初翻訳メンバーの4人中で、玄白自身を含め中川淳庵・桂川甫周の3人はオランダ語25文字も解らないほどであり、唯一長崎遊学経験がある前野良沢のみが、蘭語と文脈を少々知っていたのみであり、玄白たち3人は、良沢に蘭語の手解きを受けることから始めた、ことが書かれてあります。
 しかし、いざターヘル・アナトミアの翻訳を始めようとし、開巻1頁から茫洋として、『艫舵なき船の大洋に乗出だした如く、どこから手のつけようもなく、あきれにあきれているほかはなかった。』(蘭学事始)と、杉田玄白は当初、メンバーの蘭語についての未熟さを白状しています。
 江戸幕府が鎖国を国策とし、四民に対して厳しい言論や思考統制が敷かれていた時期に、解体新書の執筆に励んでいた杉田玄白と前野良沢たちの苦労は並大抵なものではなかったことが容易に察せられます。(先述の優れものが容易に取り揃えることができる我々現代人でも、いざ外国語を勉強することは一苦労であります)



 現在でも自身のキャリアアップのために英語などの外国語学習やその関連の資格取得の勉強が話題となっていますが、そのために何よりも必要なのは、(単語や文法を学ぶと同時に)「日本語(母国語)の語彙力と文脈の知識である」と、語学関連の世界では言われています。自身の母国語をよく修養することにより、外国語の単語や文法を読んだ際に、その意味と脈絡が掴むことができます。
 以前には「英語勉強には、国語の勉強は不必要である」という乱暴な言論もあり、若年の筆者にも大いにそれを信じていた暴論者もありましたが、それはあまりにも小児病的な考えであり、自身のキャリアアップのために外国語という建物を建てる場合は、堅固たる母国語の基礎も必要であると思うのであります。
 かつて豊臣秀吉の参謀として、彼に天下を取らしめたと評される黒田官兵衛(如水)は、現在でも共感させられる名言を遺していますが、その1つの中に『文武は両輪の如きものであり、どちらも修練を怠ってはいけない』という意味合いの名言がありますが、それは学問(官兵衛の言う所の「文」)の中でも言えることではないでしょうか?
 学問カテゴリーを大別すると「文系」と「理数」、「アジア関連」と「欧米関連」、「心理」と「法学」、軍事作戦面では「戦術(tactic)」と「戦略/兵站(strategy/logistic)」など一対で成すものがあると思いますが、人間が諸事学ぶに当たっては、どちらか一方に偏って学ぶというのはよろしくないと僭越ながら筆者は思うのであります。文系と理数系を両輪として修養して、自身を前へ進めてゆくことが最良ではないでしょうか。

 『正義も過ぎれば悪となる』(ニーチェやバルタサール・グラシアン)、『中庸の徳』(論語)という古今東西問わず、偉大な哲学者たちが上記の至言を遺している通り、学問に臨む姿勢、更に人生の諸事万端についての模範にしたいものであります。繰り返しますが、江戸期の学問思想面では、杉田玄白たちも「漢方」と「蘭方」の両方を偏り過ぎることなく中庸の道を歩み、更に言えば和魂洋才の気分を以って挑んだので、前掲の偉大な事業を成し遂げることができたに違いありません。

 杉田玄白は「仲間たち(玄白は『先覚者』と評しています)」と共に、精魂をすり減らし解体新書を執筆した時の回顧談を、著書『蘭学事始』で以下のように記述しています。

『先駆者としての苦闘は、やがて先駆者のみが知る欣びで酬われていた。語句の末が明らかになるに従って、次第に蔗(さとうきび)を食らうがごとく、そのうちに含まれた先人未知の真理の甘味が、彼らの心に浸みついていた。彼らは、邦人未到の学問の沃土に彼らのみ足を踏み入れ得る欣びで、会集の期日ごとに、児女子の祭見に行く心地にて、夜の明くるのを待ちかねるほどになっていた。』

(以上、杉田玄白著『蘭学事始』文中より)
 



 筆者が僭越にも語学修学のためには、母国語と外国語の勉強のバランスが重要である、という意味合いの事を先述させて頂きましたが、それ以前に、もっと重要な事は、偉大な杉田玄白先生が上記の『蘭学事始』で仰せられているが如く、『知る欣び(喜び)=学問の沃土に足を踏み入れる喜び』という心持ち、即ち学ぶ愉しさ、であると実感させられます。
 孔子もまた『論語(雍也篇)』で曰く、『理解することは、愛好することの深さに及ばない。愛好することは、楽しむ境地の深さに及ばない』。かの孔子サマも楽しんで学ぶことを至上としています。
 ここまでの境地に達することは、とかく諸事繁多かつ他の誘惑が多い環境の中で身を置く、我々現代人にとって中々至難の業ではあると思いますが、杉田玄白と前野良沢たちは、東洋と西洋両方の医学と語学について、怠惰することなく修養を重ねていきながらも、最後まで『知る欣び』(知的欲求心)という感情を持ち続けたことも、3年にも及んだ翻訳作業(解体新書執筆)を成就できた大きな要因であったと思います。
 最初に挙げさせて頂きました江戸幕末期最高の発明家・田中久重も、根本には杉田玄白たちと似た、新しき物を『創る欣び』という心が終生あったから、久重も偉大な発明家であり続けたのだと思います。
 田中久重や杉田玄白と前野良沢、といった和魂洋才の偉人には足元にも及ばない筆者ではございますが、何事か取り組む際には『欣び』という感情は大切にしていきたいと、この記事を書いていて強く思いました。

 今回は、鎖国体制下の江戸期で熟成された文化や学問の中で、誕生した3人の偉人、田中久重・杉田玄白・前野良沢を中心に記述させて頂きました。実は、当初この記事を書く際、江戸幕末期に誕生した啓蒙家の『西周(にしあまね、石見津和野藩出身 1829~1897)』と、周とほぼ同時代人であり高名な『福沢諭吉(豊前中津藩出身 1835~1901)』の両人を中心に据えながら記述していくつもりでした。しかし、江戸期の寺子屋教育、漢学と蘭語の浸透などを書き始めたら、今回の3人の偉人を軸にして書いてゆくことになりました。
 西周と福沢諭吉も、杉田玄白と前野良沢が礎を築いた蘭学ブームの中で、漢学と蘭語(西洋語学)を大いに学び、明治期の思想教育面、日本語の新作で多大な貢献をした偉人たちでありますから、この2人こそは是非紹介してみたいと思っておりますので、今度は書いてみたいですね。



 余談でありますが、西周は、元々は杉田玄白と前野良沢らと同じく蘭方医(津和野藩医)であり、福沢諭吉こそは医師ではありませんでしたが、若年期は蘭学を大いに志し、大坂の蘭方医・緒方洪庵の適塾で学び、杉田玄白の蘭学事始の改訂版を明治期に出版しているほどであります。更に諭吉と良沢は、共に豊前中津藩の出身(良沢の場合は厳密言えば、他藩からの養子)であります。(些か故事付けもありますが)、そう思うと奇縁を感じると同時に、今後、西周と福沢諭吉について記述するつもりでいる筆者にとっては、励みになるものであります。

(寄稿)鶏肋太郎

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