津田出の改革とは~明治国家を先取りした紀州藩の大改革を断行した「経綸の天才」

津田出の改革

 皆様よくご存知の通り、今年2021(令和3)年のNHK大河ドラマは、日本近代産業(資本主義)の礎を築いた渋沢栄一(演:吉沢亮さん)を主人公とした『青天を衝け』でありますが、7/18に放送された第23回「篤太夫と最後の将軍」で、(毎回草彅剛さんの名演が光彩を放つ)江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が、朝廷に政権を返上する有名な『大政奉還』(1867/慶応3年11月9日)が主軸として描かれていました。
 大政奉還当時、幕命によってパリ使節団の一員として海外で見識を広めている渋沢栄一(篤太夫)、一方その彼の主君である徳川慶喜が紛糾極まっている京都や大坂を拠点として、敵方の薩長軍の攻撃を躱すために政権を朝廷に返上するという大英断を下したのですが、それでも薩長軍は、慶喜および江戸幕府を抹殺するために、岩倉具視と共に朝廷を壟断することに成功。錦の御旗を擁した薩長軍は、1868年(慶応4年)1月に勃発した『鳥羽伏見の戦い』(戊辰戦争の初戦)で旧幕府軍を破り、徳川慶喜を「朝敵(逆賊)」として仕立て上げることに成功しました。



 「薩長土の雄藩軍=官軍、錦の御旗を擁す。最後の将軍・徳川慶喜、朝敵に」というニュースは、佐幕派の諸藩などに激震が走り、外様大名ながらも譜代大名格の栄誉を与えられていた伊勢の津藩(藤堂藩、32万石)、そして筆頭譜代大名であるはずの近江彦根藩(井伊藩、23万石)も、幕軍から官軍へ寝返っています。大坂夏の陣以来、江戸幕府軍の先手大将の双璧とされていた津藩と彦根藩が、なし崩しに官軍へと鞍替えしていることを見ても、佐幕派の勢力にとっても「徳川慶喜の朝敵の汚名」は、相当衝撃的なものであったことがわかります。一番衝撃を受けたのは、徳川慶喜本人であり、鳥羽伏見の前哨戦での敗退のみで戦意を喪失し、闇夜に紛れて大坂城を脱出し、幕府軍艦・開陽丸で海路、江戸へ帰還したことは、あまりにも有名であります。

 鳥羽伏見の戦いでの敗戦、徳川慶喜の朝敵、そして彼の敗走。これらの衝撃的な出来事により、慶喜に最も近しい会津藩や伊勢桑名藩を双璧とする佐幕派の諸藩も、官軍から目の敵にされるようになり、戊辰戦争の最大の山場となる会津戦争へと繋がり、「白虎隊の総自刃」や「二本松少年隊の玉砕」といった幕末の戦争悲話が誕生することになります。
 会津や桑名の両藩とは違って、官軍から当初敵視されながらも、見事に困難な政局を乗り切ったばかりか、明治新政府を先取りした藩政改革および軍制改革を成功させたことにより、寧ろ官軍=新政府から尊敬の念を向けられることになります。それが徳川御三家・紀州藩55万石(藩主:徳川茂承)であります。
 悲劇的な結末を迎えることになる松平容保を藩主とする会津藩、容保の実弟の松平定敬が藩主を勤める桑名藩も、徳川本家の血筋を受け継ぐ、所謂親藩大名に分類されるのですが、徳川茂承の紀州藩は、先の両藩とは比較ならないくらい徳川本家に近しい血脈を持つ、尾張藩62万石と並んで親藩大名の筆頭格であります。
 そういう意味では、薩長によって京都に樹立された官軍=新政府側にとって、旧幕府の有力親藩大名である上、畿内の近くに拠る紀州藩は、いち早く討滅するべき勢力(実際、当初新政府から敵視されていました)となるべき存在でした。しかし、そうならなかったのは、紀州藩が早々に新政府に対して恭順の意を示したこともありましたが、先述のように、「近代国家を先取りした政体と軍制プラン」による藩政改革を立案および断行したからであります。
 津田出が発案した上記の近代国家を先取りしたプランについて、簡単に記述させて頂くと以下の通りになります。

⓵『家禄制撤廃』:幕藩体制(「封建制」・「家禄制」・「軍役」)を廃し、全ての藩士を一定の給与(無役高)を支給し、藩財政の負担軽減を試みる。
⓶『四民平等』:士農工商の身分制を撤廃する。
⓷『郡県制』『三権分立』確立:中央政権体制で各地を統治。新たな藩運営に際し、立法・行政・司法による政治体制の確立。
⓸『徴兵制』の確立:四民から募兵および訓練を行い、近代軍隊の設立を目指す。
⓹『陸海軍』の設立:近代戦術や最新兵器揃え、陸海の両面からの国防に備える。
⓺『殖産興業』の推奨:西洋農法(畜産業)や生糸業、皮革業など当時の重要産業の推進。
⓻『貿易』の奨励:文字通り、諸外国との貿易を進め、経済力を高める。
⓼『学校』『病院』の設立。

 等々があり、⓵~⓼を総括して『富国強兵』と譬えられる場合もあります。富国強兵は1868年~1878年(明治元年~同10年)頃に、明治新政府が近代国家として断行した国政改革でありますが、その中央政府に先駆けて、⓵~⓼の国家プランを実行および成功させたのが、幕藩体制の老舗的存在であるはずの紀州藩であったのです。



 藩政改革を最終的に決断したのは、藩主・徳川茂承であることは間違いないのですが、その先進的な改革案を立案および最高責任者であったのが、茂承が紀州藩の執政として抜擢した中級藩士・『津田出、通称:又太郎、号:芝山』という隠れた偉人でした。
 津田出の前半生については、前回紹介させて頂きましたので、今回は出が立案実行した藩政と軍制の全改革(1869年(明治2年)に断行)の詳細、そして彼の晩年について追ってみたいと思います。*⓵~⓼全部、津田出の晩年などについて今記事1回で纏めると、恐ろしく長文となってしまいますので、今記事では⓵~⓹の藩政軍制改革について記述して参ります。
 
 ⓵家禄制の撤廃と⓶四民平等について。津田出はこれらを『禄制改革=「無役高」の創設』『四民平均之事』と称しています。
 
 江戸幕藩体制というのは、中央政府である江戸幕府では、老中や若年寄、諸藩では門閥家老(世襲重臣)らが中心となり、幕政と藩政を担ってきました。またそれらの政治運営と財政基盤は、米穀の取れ高、即ち「石高」が中心になっていたことは皆様よくご存知だと思います。またこの政治経済のことを、「幕藩体制」あるいは「(江戸)封建制」と呼ばれていたこも周知の通りであります。
 江戸幕末になると、数多の武士たちの永代雇用費(家禄)、商業流通の多様化による米価下落(米価安の諸式高)、諸外国に対する武備などの事情が重なり、幕府や諸藩では、米穀で切り盛りする石高制の財政基盤では完全に支障を来すようになっており、経済的に困窮していました。
 「貧すれば鈍する」という慣用句があるが如く、経済的に追い詰められていた幕府や諸藩での政治は、家禄が高い上、有能なのか無能なのか不明な世襲家老や重臣たちによる「事なかれ主義」の寄合運営が主となっていました。その状態の中に、米英仏露などの列強諸国の日本来航をはじめ、開国派や攘夷派の相克といった江戸幕末動乱が到来したのであります。幕府をはじめ雄藩を除く殆どの藩は、経済的に加え、政治外交的にも追い詰められることになりました。
 津田出が属する紀州藩でも勿論例外ではなく、代々藩主から高い禄を頂戴している凡庸な門閥家老らが、藩政を壟断している状態で、その連中には江戸幕末の混迷期を乗り切ってゆく能力も気概もありませんでした。
 紀州藩主・徳川茂承の特命により、同藩の執政となった津田出は、先ず着手したのは、「禄制の改革」でした。即ち「給与カット」による経費削減であります。
 津田出は、自分を含める藩政改革を取り仕切っている重役たち、紀州藩に代々仕え高禄を食んでいる家老衆の家禄を、何と10分の1も削減したのであります。例えるなら、1000石の藩士の禄高が、一挙に100石までになったのであります。(しかしながら25石以下の下級武士は対象外)
 この大幅禄高カットは、藩士のみならず、藩主の徳川茂承も率先して取り組み、それまで藩主の取り分であった20万石分を1万石までに切り詰めたことにより、改革反対派(守旧派)が多い家老衆も、茂承や津田出に対しての大胆な経費削減策(禄制改革)を是認せざるを得なかったです。
 その削減した家禄の収益分で、津田出は、新たな⓸や⓹「軍制改革(徴兵制)」および⓷「政府構造(1府5局による郡県制や三権分立)」を設立し、紀州藩の近代化を推進してゆくのですが、家禄大幅カットされた家老衆や中級藩士らには、個々の能力や見識を問わず、以前の家禄に合わせて最低限の生活を保障する給与(切米)が支給されるようになりました。それが「無役高」であり、1石当たり1俵(約60kg)の玄米が支給されていたので、100石取りの侍ならば、100俵が無役高であったということになります。
 近代軍隊・郡県制による政治、両方にはその全組織や各部署を束ねる相応な役職が必要になってくることは、現代でも同様ですが、無役高を設定した直後の紀州藩でも、軍部や政府に役職を創設し、役職に就く有能な人材には役職手当(「文武官役高」)が与えられるようになりました。
 「無役高」「文武官役高」が藩政の中心に置かれてために、紀州55万石という大藩の金屛風の中で、高禄と旧態の役職を壟断してきた高中級の藩士らの特権や利権は撤廃され、鎌倉期以来700年続いた封建制は、先ず紀州藩で崩れ去り、禄制改革後の新体制では、役職に就任できるのは、最早、家禄の高さや家柄の良さ、御殿社交術の上手さという取り留めもない条件ではなく、身分は賤しくても有能であれば軍や政府の役職に就けるということになったのです。
 封建制の崩壊、貴賤不問の人材登用、これは明らかに明治政府の大方針である四民平等(1870年/明治3年からその翌年に実現)先駆けたものであり、紀州藩では、1869年(明治2年)の初めには、津田出が中心となって粗いながらも四民平等が達成しているのであります。



⓷『郡県制』と『三権分立』確立について。『職制改革案』=政治体制の刷新、『1府5局』の設立
 
 禄制改革、それによる四民平等の誕生により、紀州藩では、代々門閥家老や重役のみによって独占されていた「藩政参与権」と「紀州徳川家の家政」は、事実上喪失することになり、執政・津田出は、新たな政治機構を創設しました。それが『郡県制』『三権分立』を旨とする『1府5局』の開設であります。

☆1府5局とは?

◎1府:『政治府』(政事府とも、組織長:執政、即ち津田出)、旧態紀州藩における御用部屋

 新設された紀州藩の中央政府(内閣)。政治府を藩政の中核と成し、5局および地方の民治を統括する。
 執政を輔弼する主な役職として、ナンバー2である「参与兼公儀人」や、過去の民治や法制を記録および調査する「史官」、諸庶務を司る下級吏員である「童徒」があります。また管轄部署として「議事所」「監察所」があり。

〇5局について:各局で、紀州藩内の民政・財政・軍事・司法・教育などを担当する。

1.『公用局』。旧態紀州藩における公用方。
 
 紀州藩内の庶務、書類の保管などを司る。組織長は「知局事」と呼ばれ、その補佐役として副知局事、判事局兼公用人、書記、童徒があり。内部部署は「礼典所」「外接所」。



2.『軍務局』。旧態紀州藩における御軍事方。

 文字通り、藩内の軍事担当局。近代軍隊の要諦である「陸軍」「海軍」の創設およびそれらに必要な兵器調達や調練に携わる。知局事をトップとし、主な補佐役に半局事、書記、童徒があり。「陸軍所」「海軍所」「演武所」(練兵)の3つの所轄部署があります。
 各所は陸将・海将・教授らが配されおり、実働部隊には、大隊長・副長・教頭・小隊長などの役職が存在し、正しく明治陸海軍内の呼称が先取りで利用されています。
 詳細は後述しますが、津田出は、藩政改革の内、特に近代軍隊への刷新する軍制改革、即ちこの軍務局の強化に着手していたように言われており、出の軍制改革の下、砲兵隊長に抜擢された紀州藩士・岡本柳之助(乙未事変の主導者)の回顧録『風雲回顧録』(武侠世界社刊行)では、出を「日本陸軍の三恩人」の1人として挙げ、彼の軍制改革により、日本陸軍が誕生したのであると評しています。日本陸軍の開祖として、長州藩出身の大村益次郎(初代・兵部大輔)が有名でありますが、津田出も特に軍制改革に心血を注ぎ、紀州で近代軍隊を創設し、明治陸軍の礎に大きな影響を与えているのです。

3.『会計局』。旧態紀州藩における評定所(御勘定所)。

 これも文字通り、藩の歳入歳、即ち財政全般を管轄する局です。組織長は知局事、その補佐として半局事、書記、童徒の役職があります。
 所轄部署に、金銀を管理する「金府」と、食糧管理を行う「穀倉」があります。この局部は、正しく紀州の「財布」(財務省)と「胃の腑」(農林水産省)という日々の生活には欠かせない物を管理していたのであります。

4.『刑法局』。旧態紀州藩における町奉行所。

 藩の警察権と司法権を所有し、藩内全体の治安維持を担当する局であります。また軍隊で法規に違反した将兵らの裁判も担当していました。組織長は、知局事、その下に半局事、書記、捕亡手(警察官)、童徒があります。所轄部署に、罪人や不貞兵士たちを逮捕拘留する「捕亡所」と、罪人らを裁く「鞠獄所(きくごくしょ。何とも難しい漢字であります)」があります。
 江戸期の町奉行所とは、警察・司法の2つを担当したのみならず、市政や消防、即ち「行政」と「司法」を一手で担当した多忙部署でありましたが、紀州藩では町奉行が解体され、警察・司法を担当する刑法局が新たに設置されました。行政権は、下記の5.民政局に移行することになります。
 因みに、中央政府の明治政府が、薩摩藩士・川路利良(初代大警視)に命じて、政権管轄の警察機構を本格的に樹立するのが、1871(明治7)年になってからであります。

5.『民政局』。旧態紀州藩における傳甫産物方。

 紀州藩内の民政を担当。和歌山みかんブランドで著名な有田郡を含める7郡それぞれに民政局が設置され、各郡の行政を担当しました。組織長は知局事、その補佐として半局事、書記、童徒があります。
 現在の食卓でもお馴染みのヤマサ醤油を代々製造販売している濱口家7代目当主・濱口儀兵衛、後の濱口梧楼(地震津波災害から人々を救った物語「稲むらの火」/小泉八雲原作の「A Living God」のモデル)は、商人ながらも津田出に抜擢された傑物の1人で、紀州藩の勘定奉行(のちの出納長)など要職を経て、後に有田郡や名草郡の民政局のトップである知局事に任命されています。

(上記の参考文献:『南紀徳川史 第9冊』)
 
 以上、紀州藩は、新たな中央政府たる『政治府』、行政・財務・軍事を司る『5局』の『1府5局』が置かれ、郡県制度が確立され、各郡・各村の所領権を持っていた武家の存在、即ち封建制は解体されたのであります。上記には挙げませんでしたが、5局以外にも、四民の教育教化を目的とする「教育館」あります。(この詳細は後述します)また、紀州徳川家のみの家政を治める「家知事職」という職掌も新たに設けられたことにより、江戸期の「紀州藩政=紀州藩徳川家の家政」という図式は撤廃され、「紀州藩内の経営」と「紀州徳川家の家政」は、役職によって完全に分担されたのであります。



 紀州藩では、高級武士や下級武士を問わず、最低限の生活ができる扶持米・無役高が給与され、更に1府5局や軍隊の役職に就任した有能な人物には、役職に応じて無役高の他に文役職手当・文武官役高も支給されることは先述の通りであります。
 しかしながら、ご存知のように役職の数には限度がある上、不幸ながらも役職に能わぬ才知や機略を持ち合わせない殆どの紀州藩士たちは無役高のみで、侘しい生活を過ごすことを余儀なくされたのです。そこで津田出は、家老など高級武士を含める全藩士に対して、和歌山城下町からの移住を許可し、農商工業への転職を推奨しました。即ち、和歌山城下町に集住してきた全藩士らに、引越しと転職の自由化を奨めたことになります。現代感覚からすれば、何ともないことに思えるのですが、これも封建制の終焉を告げる現象であります。
 織田信長、次いで豊臣秀吉が国家政策の一環として発令した「兵農分離」を、徳川家康と江戸幕府は継承し、幕藩体制/封建制を樹立したのですが、これにより幕府直参旗本をはじめ諸藩(薩摩藩は除く)に仕える武士階級は、『大名居城の城下町への集住』と『副業の禁止』が義務付けられたのです。
 幕府の旗本や諸藩の武士たちは、有事の際に将軍や殿様の号令があれば、直ちに「戦力/兵力」として結集しなければいけないので、城下町から離れた場所に居住し、農業や商業など他業種に束縛されているという、それこそ鎌倉期や室町初期の様な、自分の所領から遥々大名の下へ駆けつける中世武士団のようでは、とてもマズイのであります。そして、幕府や諸藩に仕える武士階級は、約260年という長い年月、狭い城下町への強制居住させられた、その殆どの武士たち、特に幕府旗本衆らは、大した仕事をすることもなく愚連隊のように遊んで無聊をかこっていたのであります。これが江戸幕藩体制/封建制が産んだ現象であります。
 津田出は、先述の通り、藩士へ移住や多種への転職を許可することにより、封建制を解体してしまったのです。
 「これより先は、藩士の皆さんが城下町に居なくても、有事の際は、軍務局直属の近代軍隊がいますし、普段の行政全般は、政治府や民政局の役員が運営しますので、藩士の皆さんは城下町から引っ越して頂き、どうかご自身に適った職業を見つけて、産業を興して、その方面から紀州藩の発展に尽力してください。」
 みたいなことを津田出は、役職に就けなかった多くの藩士らに通達したかもしれませんね。

 津田出が考案した1府5局の内、政治府は「立法」民政局は「行政」刑法局は「司法」といったように、近代国家政体の主体を成す『三権分立』も封建制が解体されたと同時に、新政府をはじめ諸藩より先駆けて紀州藩では誕生したのであります。

⓸『徴兵制』の確立と『陸海軍』の設立について。 『兵制改革』『交代兵要領の発布』

 津田出の小伝『壺碑』に拠ると、上京した出が藩政改革(正式名:御国政改革趣法概略表)を断行する直前に、同郷の陸奥宗光に語ったとされる改革の要綱は、「封建制の解体」、それに代わる政体として「郡県制の樹立」であり、それを実現させるには、身分不問の四民から成立した軍隊を整えるために『徴兵制/軍制改革』が必要不可欠である、ということでした。
 上記⓷で紹介させて頂いた通り、津田出は藩政改革で、封建制(士農工商の身分制)の解体し、1府5局の政治機構を設立、紀州藩内の郡県制を整えましたが、それと同時に出は兵制改革にも着手しております。それが『交代兵』の設立でした。
 『交代兵』、馴染みの薄い言葉ですが、士農工商の四民が、年齢に応じ交代して兵役を就くから交代兵という呼称が付いたと言われています。即ち、これが後に『徴兵制』と呼ばれる明治政府の重要国策の1つとなります。
 紀州藩内の四民から交代兵して徴兵するに当たって、津田出はそれについての声明文というべき『交代兵要領』(後に『兵賦略則』として改正)を発布しています。それを筆者なりに現文にて下記のように箇条書きさせて頂くと・・・、
 
(1).20歳以上かつ独身者の農工商の子弟を募兵対象とする。

(2).徴兵した交代兵の内、4大隊(1大隊=将兵(工兵や軍医を含め)併せて560人の兵力なので、4大隊は2240人)を常備兵とする。

(3).20歳から22歳の3年間を「常備兵」とし、各兵営に駐屯させる。

(4).23歳から25歳の3年を「第1予備兵」とし、各々の家に在宅を許可、1年に数か月間のみ入営と軍事訓練を受けること。

(5).26歳から28歳は「第2予備兵」とし、第1予備兵の予備として、召集命令以外は在宅を許可する。

(6).兵役中は諸規則を守り、特に酒場や遊郭への立寄りは堅く禁ずる。

等々がありますが、以下の条項の対象となる者は兵役を免除することも、決められています。



1.一家の主人である者。
2.身長低く、生来虚弱である者。また難病を抱える者。
3.独子独孫の者。即ち自分以外に家を継承する者がいない。
4.父兄が病弱あるいは事故により、代わって家を継いでいる者。
5.兵役免除の金(除役金)を納入した者。

 1~4の兵役免除対象者はともかく、5の除役金を納入した兵役免除というのは経済的に相当負担になる金額でありまして、常備兵3年の免除を望む場合、1年毎に金60両納入を命じ、第1と第2の3年ずつの予備兵の免除を望む場合は、1年毎に金20両納入を命じています。
 こんな大金を支払うのは、紀州藩の御用商人でも経済的に無理でしょう。即ち経済的に余裕がない一般的な四民の青年らは交代兵として兵役に従事するしかなかったのであります。

 交代兵として徴募された兵士たちは軍務局/軍務局知局事が管轄する陸軍と海軍に配備され西洋式軍隊の調練を受けることになりました。その調練内容とは、集団及び散兵による軍事行動や最新式ライフル銃や大砲による射撃訓練などが主であります。
 それまでの戦争内容(中世的合戦)というのは、戦国期のように槍などの白兵戦による直接攻撃で雌雄を決するというものでしたが、明治期以後の近代戦争は、遠距離攻撃や速射が可能なライフル銃を持った多くの兵士たちが、指揮官の号令の下、斉射や散開などの円滑な軍事行動によって敵兵を圧倒することが、メインとなりました。即ち、銃隊の多寡やその質が、勝敗のカギを握ることになったのであります。
 一兵卒としてライフル銃を撃ちながら、突撃したり伏せたりする軍事行動。現在の軍人さんや自衛官の皆様にとっては当たり前の軍事行動でしょうが、封建制を経てきた元武士階級の人々にとっては、
 自ら銃を操って、敵兵を狙撃し、場合によっては蛇の如く地を這って匍匐(ほふく)前進で敵陣地に進軍するという行為は、足軽や雑兵など卑賎者の働きであり、これ以上不愉快なものはなかったでしょう。武士というのは、騎馬武者によって本陣に鎮座する総大将、即ち殿様を傍近くでお護りする、というのが最上の名誉とされていたのです。
 戦国期に織田信長が、総大将自ら鉄砲(火縄銃)を撃ちまくって敵兵を斃すことや、その重臣となった明智光秀や佐々成政ら大名級の武将が鉄砲操作に長けていた史実、また九州最強の薩摩島津軍の上級武将も鉄砲を重視していた例もありますが、上級武士階級が自ら銃を操るというのは戦国期でも珍しいでしょう。(尤も、大名自ら鉄砲を操るほど、その存在を重視した織田信長や薩摩島津が、当時屈指の強豪勢力になった要因の1つでもありますが)
 兎に角にも、武士階級にとって、自らライフル銃を持って最前線に立つというのは武士のプライドを傷つけるものであったことは事実であります。
 軍制改革を行った紀州藩では、立ち上げたばかりの陸軍を「歩兵寮」「騎兵寮」「砲兵寮」「工兵寮」と、(後年発足する明治陸軍と同様に)、兵科別に編成しています。このことについて前掲の『風雲回顧録』では、『これ実に明治期に特筆すべき20歳適齢徴兵実施の第1着であるのだ。』と、紀州藩の先進性および近代性に富んだ兵制改革を自画自賛しています。
 軍務局は廃止され、代わって『戍営』(じゅえい)と士官学校である『兵学寮』が創設されることになり、紀州洋式軍の全隊を統括する戍営都督には津田出が就任しています。因みに、「戍(じゅ)」という干支の戌(いぬ)に酷似している馴染みの薄い漢字には、「国境を守る」という意味があり、即ち戍営とは「紀州国境を守る兵営」ということを指しているのでしょう。
 戍営、即ち紀州藩西洋軍隊の総大将である都督には津田出が任命されたことは先述の通りですが、他の戍営幹部も以下のように、紀州藩内外など俊英が任命或いは招聘されています。



戍営都督:津田出(紀州藩士)
戍営副都督:塩路嘉一郎(紀州藩士)
次席戍営副都督:鳥尾小弥太(長州藩士、元奇兵隊士、のちに子爵)
ドイツ学教師:小松済治(会津藩士、医学者)
英学教師:星亨(相模小田原出身。のちに弁護士、第11代逓信大臣)
国際法学:林董(順天堂の創始者・佐藤泰然の5男。後に駐英公使、第21代外務大臣)

 以上の面々であり、とても豪華な顔ぶれであります。特に星亨や林董は、19世紀後半の鳴動期である日清戦争後~日露戦争直前で、外交官として対英米両国の現場外交を担当した傑物たちであります。これらの英才教師たちが紀州藩で誕生した西洋軍隊(四民から交代兵員)に、語学や世界情勢を教授したのであります。
 長州奇兵隊の勇士・鳥尾小弥太や林董など紀州藩外から逸材を招聘できたのは、津田出のみ功績ではなく、陰で出の藩政改革を支援した元・紀州藩出身であり、藩外で新政府側の人間として活躍していた陸奥宗光の存在が大きかったのです。
 事実、星亨や林董を抜擢したのは陸奥宗光であり、彼らを紀州藩へ教師陣として招くことが出来たのも新政府内に人脈を持つ陸奥の功績であります。もし陸奥宗光という人物が居なければ、日本近代史に大きな足跡を遺した津田出の藩政改革も上手く実現できたか、疑わしいものであります。
 余談ですが、前回放送(2021年8月22日放送、第25回「篤太夫、帰国する」)のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で、吉沢亮さん演じる主人公・渋沢篤太夫(栄一)が、日本へ帰国する日本人留学生らを叱り付ける場面があり、その中に英国に留学していた林董(当時は林董三郎、演:徳井沙朗さん)がいましたね。虚実皮膜が展開するドラマ内とは言え、思わぬ場面で、後に日英同盟締結の立役者となる名外交官・林董の若き姿を見ることができ、筆者は少し嬉しくなりました。

 津田出は、若年頃より蘭学を学んで得た知識を活かし、交代兵制/徴兵制と兵科別の西洋式軍隊(戍営)を創設しましたが、より本格的な洋式軍隊に完成させるために、外国人教師団、俗に言われるお雇い外国人を紀州藩で招聘することを決定しました。その教師団の教頭的立場であったのが、元プロセイン(現在のドイツ)陸軍の下級士官であった『カール・ケッペン(1833~1907)』でした。



 
 江戸幕末~明治初期にかけて軍事顧問以外にも、医学や農業など様々な産業についての外国人教師らを、好待遇によって明治政府が招聘していますが、その教師団の中でも一番有名なのが、『少年よ、大志を抱け!この老人のように。(Boys, be ambitious!Just a like this old man.)』の名言をのこした米国人・ウィリアム・S・クラーク博士(農学・動物学部門の教師)でしょう。
 クラーク博士が、お雇い外国人教師として来日するのは、1876(明治9)年になってからであり、紀州藩(津田出)によって招聘されたカール・ケッペンは1869(同2年)には、紀州洋式軍隊の軍事顧問として同隊の調練指導に当たっているので、ケッペンはクラーク博士の先輩に当たると言っていいでしょう。
 紀州藩が招聘したのはカール・ケッペン(名目は歩兵教官)のみではなく、他にもアドルフ・ヘルム(副官)、その弟のユリウス・ヘルム(工兵教官)、ワーゲーネーヨとプーク(共に火薬加工師/火工師)、築城家(陣地構築)のマイヨーらも、ケッペンと同様、紀州藩のお雇い外国人ですが、その中でも目が惹くのが、製靴師のハイト・ケンペル、製革師のルボスキー、革細工師のワルーデとフラットミドルら西洋職人もほぼ同時期に招聘されていることです。生粋の軍事関係者のみではなく、産業を興す職人さんたちといった「多種多様の教師陣」が招かれているが興味が惹かれます。
 製革師らは軍服に必要な革靴やベルトなどを製作するために招聘された人たちでありますが、この職人さんたちが本場西洋の皮革業を教授することにより、紀州藩では殖産興業が早くも根付いたのであります。
 因みにカール・ケッペンを含める全ての外国人教師は、プロセイン人(ドイツ人)であり、後の明治陸軍がドイツ陸軍を模範として形成されていったことを思えば、津田出によって西洋式軍制改革で新生した紀州藩は、明治時代を先取りしていた、と言えるでしょう。
 紀州藩の軍事顧問に着任する直前までカール・ケッペンは、大坂川口居留地で貿易業(武器商)を開業していたプロセイン人のレーマン・ハルトマンの倉庫番として勤務していましたが、ケッペンは、先述のように元プロセイン陸軍の下士官(曹長)で、新式銃の操作や知識、部隊運用・軍制などにも熟知していた優秀な人物であったので、紀州戍営都督の津田出にヘッドハンティングされたのです。
 カール・ケッペンの勤務地である大坂の貿易会社ハルトマン商会は、紀州藩が西洋から新式銃『ドライゼ銃/ツンナール銃』3000丁を購入するための仲介業を行っており、そこで紀州藩が商会で倉庫番をしていた元軍人のケッペンの存在を知ったと思われます。
 カール・ケッペンも、前掲のウィリアム・クラークほど知名度が高くないお雇い外国人教師の1人ではありますが、1873(明治6)年、明治政府によって施行される徴兵制に4年も先駆けて、ケッペンが紀州藩の軍事顧問として、同藩の兵制改革(交代兵制)や新式銃導入に尽力した事業については、近代史や軍事史をご研究なさっている諸先生方や研究員の皆様には、研究するには良き材料であり、ケッペンと紀州藩の兵制改革の関連性についての論文などが、発表されています。
 上記の論文集の中でも、筆者が幸運にもネット上で発見することが出来た素晴らしい論文が、2017年3月に発表された佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 45号に収蔵されている『和歌山藩の兵制改革とカール・ケッペン』というものであります。作者は二橋依里子氏という当時同大学大学院生(或いは研究員)であった方と思われますが、二橋氏がご発表された『上記の論文』は短文ながらもとても分かり易い内容となっております。
 二橋氏の論文の一部を、僭越ながら筆者なりに纏めさせて頂くと、『カール・ケッペンは紀州藩の軍事顧問として一大隊の軍事調練を担当していたことは事実ではあるが、寧ろ紀州藩(筆者注:特に戍営都督の津田出)がケッペンに対して特に求めていたことは、新式銃の運用法、それと銃に必要な「弾薬」の定期的な生産方法の教授を紀州藩にしてもらうことであった。
 成程、カール・ケッペンという元軍人について、『南紀徳川史』文中では、『カッピン(筆者注:ケッペンのこと)なるもの(中略)學術技藝共に抜群、一切之兵制に通暁せり』と評していますので、軍事調練以外にも、軍事行動には絶対不可欠な新式銃、弾薬の安定的な量産する物資供給、即ち「ロジスティクス/兵站」を、ケッペンが確立してくれることを紀州藩が期待していたのでしょう。
 軍事専門家の方々の間では、『戦争の素人は戦術を語り、玄人は兵站を語る』という格言がありますが、津田出をはじめとする紀州藩が、西洋軍隊を組織すると同時に、軍事の学術技術の抜群なカール・ケッペンをして、新式銃の弾薬供給の早急実現化にも重点を置いていたことを鑑みると、紀州藩は兵站確立にも心得ていた「戦争の玄人」であったと言えます。
 事実、カール・ケッペンが紀州藩にもたらした弾薬製造技術は、前掲の二橋依里子氏の論文に拠ると、1870(明治3)年11月に創設された同藩管轄の弾薬工場『火薬兵器司所 高松火工所』に引き継がれ、同年12月下旬には、製紙・紙裁断・薬莢製作などが行われ、弾薬工場が本格的に稼働していた、ことを挙げておられます。
 カール・ケッペンが紀州藩の軍事顧問として全力を注いだのは、軍事調練や上記の弾薬供給といった兵站面のみではなく、同藩西洋軍隊の「軍服の統一化」にも着手しています。
 江戸幕末~明治初期にかけて、旧江戸幕府、薩長雄藩、そして紀州藩などで新式銃や大砲で装備された西洋式軍隊が本格的に組織化されていましたが、軍服制度の統一化は不完全な所があったようであり、特にカール・ケッペンが招聘される以前の紀州藩の西洋式軍隊の兵員たちは、小倉袴と草鞋といった旧武士装束の和服姿で、新式銃を担ぎ、迅速な行動が必要とする軍事調練に臨んでいたのですから、外見の兵士たちは動き辛かったに違いありません。また外見の悪さもあったのではないでしょうか。
 余談ですが、紀州藩が津田出を抜擢して藩政改革を敢行する一大起因となった第2次長州征伐(1866(慶応2)年)で、紀州藩兵を含む幕府の大軍が、寡兵ながらも奇兵隊など西洋式軍隊で組織されている長州軍によって、長州四境戦争で悉く撃破されてしまう結果になってしまったことは有名ですが、幕府側の勝海舟が、長州西洋式軍隊について以下の通りに評しています。



 『長州勢は、尻を端折って身軽ないでたち、紙屑拾い(筆者注:ズボンを履いた洋服)のような姿で、やってきたらしいね。そりゃ幕軍は負けるはずだよ』(氷川清話)

 長州四境戦争の1つである石州口の戦いでは、幕軍は徳川代々の先鋒大将として精鋭とされてきた彦根井伊藩が、有名な赤備え甲冑で身を固めた機敏性が欠如する武者行列で進攻してきたが、それに対して長州兵は、機動性に優れるズボンを履いた紙屑拾い人のような格好して機敏に動きつつ鈍行な幕軍を引っ掻き回した上、(幕軍の浜田藩兵は『長州兵は、野盗や盗賊のような戦い方(注:ゲリラ戦)をする』と評しています)、新式銃で狙撃して幕軍先鋒の彦根藩を撃破したのであります。
 約320年前に戦国期に伝来した火縄銃より弾丸の飛距離と敵の殺傷力が高い新式銃が、西洋諸国からもたらされた江戸幕末の戦いは、その新式銃と機動性に優れる兵員数の多さが勝敗の鍵となったのです。
 機動性に優れる兵員とは、日々の調練も当然のことながら、袴や着物、下駄のような美ながらも動きの機敏性を拘束する和服でなく、ズボンや革靴のような一切の装飾性を除きながらも優れた機動性を持つ「軍服/洋服」を装着していることであります。
 洋服で思い出したのですが、歴女さんたちの間でも非常に人気が高い新撰組副長の土方歳三も、新式銃の性能と洋服の長所、即ち機動性に気付き、幕府瓦解後の戦場では洋服姿で新式銃を持って、文字通り死闘を演じたことは有名であります。

(閑話休題) 

 軍服/洋服についての利点を記述するために長々と余談をしてしまいました。紀州藩の軍服制度を導入したカール・ケッペンについて戻ります。
 カール・ケッペンは、新式銃を装備しているが、袴や草鞋姿で調練を受けている紀州藩兵員に、機敏性に優れる軍服導入を行います。しかしながら全兵士に着用させる軍服や革靴を外国(プロセイン)から輸入するのは、莫大な経費が必要となってきますので、ケッペンは津田出をはじめとする軍上層部に紀州藩内で、軍服の上着とズボン、革靴の生産化を実現するように助言します。この過程において、前掲の製靴師・ハイト・ケンペル、製革師のワーゲーネーヨらが、紀州藩内での皮革製作で重要な役割を果たすことになったのであります。
 カール・ケッペンや製靴師と製革師の教授により、軍服の上着には小倉服、ズボンは綿フランネル生地(後の紀州ネル)で製造生産され、兵士たちの制服となりました。また革靴の原料には牛皮が用いられましたが、皮革の原料となる家畜動物は、紀州藩領内であった友ヶ島(紀淡海峡を所在とする島)で牧場が拓かれ、そこで牛、騎兵用の軍馬も飼育されるようになりました。
 衣服(綿加工)を生産する「紡績業」靴を製造する「皮革業」皮革の原料となる家畜動物の飼育をするための「牧場経営」。これら全て明治新政府が行った国富政策の「殖産興業」でありますが、この部門でも紀州藩は新政府に先駆けて実現しているのであります。紀州藩の殖産興業(⓺)についての詳細は、また次回にさせて頂きますが、カール・ケッペンによる軍服制度導入が契機となり、先述のように紀州藩では、皮革業や牧場経営といった産業革命以来、西洋諸国で殷賑極めていた諸産業が根付いたことは事実であります。

 津田出をはじめとする戍営幹部、カール・ケッペンら外国人軍事顧問陣らの尽力により、紀州藩の西洋式軍隊は見事に完成されることになり、明治新政府の幹部や英国公使・パークスといった各国の駐日外交官の脚光を浴びるようになります。これが1870(明治2)年から翌年にかけての出来事であり、江戸幕府に取って代わって中央政権となった新政府側は人材と財政困窮の中にあり、まだ本格的な富国強兵策を実行できていない足踏み状態の段階であります。1つの藩、現在の和歌山県が政府や他県からの財政的援助なしで、近代政府や産業、軍事に至る全ての藩政・軍制の改革に成功したのであります。正しく大偉業であります。このことについて、司馬遼太郎先生は、自著『「明治」という国家 新装版』(NHKブックス)内で、以下のように評しています。
 
『おどろくべきことに、明治政府を先取りした小さな明治政府が、明治政府とは何らかかわりもなく、大田舎の和歌山県にできたのです。』

 政治機構の1府5局、西洋式軍隊を保持すれば、それはもう既に立派な近代政府でありますが、その明治新政府や外国公使らを瞠目させたほどの津田出が主となり成功に導いた紀州藩の軍制改革の成果を、出を抜擢した紀州藩主・徳川茂承が1870(明治3)年3月に新政府の兵部省に報告しています。その凡その成果が、以下の通りであります。

 ☆紀州藩全将兵:歩兵・砲兵・騎兵・工兵・輜重(兵站)兵など『全12大隊』。1大隊=423人。隊長・士官をはじめ兵卒総勢:『5076人(423×12)』(内訳:隊長士官:1116人、兵卒3960人) 軍馬全頭数:260頭。
 上記の兵卒動員数3960人というのは常備兵であり、有事の際は第1および第2予備兵も動員可能であり、それらと常備兵も加えると約3倍の『11,880人』の兵力にも及びます。また上記の常備兵と予備兵の他にも、政事庁の守備将兵2152人も存在しており、これも加えると、紀州藩の西洋式軍隊は総勢『14032人』の兵力数を誇っていたと言われます。
 上記の約1万4千という将兵は、勿論戦国期のような中間・雑兵のようなロクに軍事調練を受けていない兵卒ではなく、軍事顧問カール・ケッペン達から西洋式軍隊調練を受け、新式銃を正確に操作できる正真正銘の職業軍人(紀州藩の呼称では交代兵)たちであります。
 軍馬(と言っても、現在の様な高体高のサラブレッド種ではなく、体高の低い日本産馬)の頭数、260頭という多さにも瞠目させられます。これだけの頭数を飼育できるほどのハード面(牧場規模など)とソフト面(飼育員や飼料供給能力)を兼ね備えていたのであります。
 ご存知のように、馬も生き物なので、一度買った(飼った)ら終わりでなく、軍馬としての調教訓練、毎日の飼料給与や日々の世話や病気なった場合の治療が必要不可欠であります。それらこそが一番辛く、億劫な作業ですが、これを難なく従事できる歴史の表舞台には登場しない知られざる人材も存在していたのであります。



 軍制改革により約14000の西洋式将兵を動員できるようになった当時(明治3年)の紀州藩について、当時砲兵大隊長であった先出の岡本柳之助は『風雲回顧録』内で、『大壮挙』として、以下の通り回顧しています。
 
 『諸藩は未だ徴兵制度の実施を見ず、歩兵砲兵の外は備はらざるに先立って、和歌山藩では騎工輜重をも揃へて逸早く1万4千余の新しき兵力を養成したことは、確かに時勢に先んじたる壮挙であらう。

(以上、「(19)他藩に先んじたる壮挙」文中より)

先述のように、著者である岡本柳之助が、当時砲兵大隊長の身分で戍営幹部の一員として紀州藩の軍制改革に関わった経歴の持ち主なので必要以上に、軍制改革の大成功を強調したかった部分もあったことが文面から見て取れるのは否めないのですが、薩長土肥の西国雄藩から成る新政府軍を含め、徳川御三家筆頭の尾張藩62万石や外様筆頭の加賀藩100万石など大藩を遥かに超越する西洋式軍隊を、紀州藩は独自で創り上げたのは、疑う余地のない事実であります。
 その証左として、新政府の創始者の1人である西郷隆盛の秘書官である実弟・西郷従道(のちの初代元帥海軍大将)と勝海舟にその器量を絶賛された村田新八、長州藩の山田顕義(兵部大丞、初代司法大臣、日本大学創設者)などの新政府側の大物たちが、立て続けに1870(明治3)年内に、紀州藩の戍営を視察するために来訪しているのであります。
 紀州藩の視察に訪れたのは新政府要人のみではなく、同年には前掲の英国公使・H・パークス、米国公使・D・ロング、ドイツ公使・F・ブラントの各国駐在外交官も和歌山に来訪しており、紀州藩軍隊における将兵の質、青色かかった黒一色に統一された軍服、新式銃などの装備の良さについて称賛しています。

 以上のように長々と津田出の主導の下、断行された「藩政改革、(今更ですが、司馬遼太郎先生は『「明治」という国家』内で、このことを『改革というより、革命である』と書いておられますが)」によって紀州藩は、1869(明治2)年~1870(明治3)の僅か2年間で忽ち近代国家政体(政府と軍隊)を確立したのでありますが、1871(明治4)7月に明治新政府によって施行されました『廃藩置県』で、全国261にも及ぶ諸藩、即ち幕藩体制/封建制は解体された上、「1使3府302県(1使:北海道開拓使、3府:東京府・大阪府・京都府)」が新たに設立されたことで、紀州藩は和歌山県となり、藩内の1府5局、戍営=西洋式軍隊も解散することになります。ここで漸く明治新政府は、津田出が紀州藩で断行した「郡県制/封建制の解体」を、全国規模で実施したのであります。

 津田出らが苦心の末に創り上げた旧紀州藩の戍営の将兵たちは、廃藩置県が施行された同年(1871年)4月から本格的に編成された陸軍の「鎮台」(東京や熊本など)として再編入されることになり、1876(明治9)年から翌年にかけて勃発する士族反乱、萩の乱(山口県)、神風連の乱(熊本県)、秋月の乱(福岡県)、そして西南戦争(鹿児島県)などの反乱士族の鎮定軍として活躍し、明治陸軍の礎となってゆくことになります。

 
 中世戦国期、南蛮人によって日本に鉄砲(火縄銃)が最新兵器として伝来、全国に普及したことにより、それまでの合戦方法(陣立)、中世の城郭建築史や産業史、遂には鉄砲で強力な兵団を造った織田信長が天下の覇権を握るという、政治史にも大きな影響を与えることになりました。また江戸幕末期には、再び英国など西洋列強から新式銃や大砲・軍艦など当時の最新鋭兵器が伝わったことで、武家政権の根幹である封建制と身分制が崩壊し、中央政府による郡県制統治、それを支える西洋式軍隊(銃隊)が登場して近代日本(国民国家)が誕生しました。
 その戦国期、江戸幕末という日本の2大変革期の重要局面で、津田出の本貫地である紀伊国と紀州藩が大きく関わっていることに気付かされます。誠に歴史に不思議さを感じます。
 戦国期では、九州種子島に鉄砲が、国外から伝来した直後、紀伊根来寺の僧兵大将・津田算長(通称:津田監物で有名)が、自ら種子島に渡り、鉄砲製造法や運用法を学び、根来寺で鉄砲製造を進めることにより、戦国期の紀伊国は、当時の最新兵器・鉄砲の一大産地となります。因みに、一説には津田算長は、津田出の先祖と言われております。もしそれが事実なら、津田出の優れた先見性は、ご先祖の算長のDNAを受け継いでいる物なのでしょうか。
 紀伊根来寺と同じ傭兵集団で、戦国期随一の鉄砲兵団として大変有名な紀伊雑賀衆(紀伊国人一揆衆または紀伊門徒衆)も屈強であり、覇者・織田信長や天下人・豊臣秀吉を、得意の鉄砲を用いたゲリラ戦法で散々に悩ましたことも有名です。戦国期、津田算長や紀伊雑賀衆といった当時を代表とした紀州人は、最新兵器の鉄砲技術全般(製造や利用)に通暁していたのであります。
 江戸幕末から明治初年にかけて、日本が再度動乱期に突入すると、今度も英仏露米などの海外列強との交流より、火縄銃より遥かに性能と使用方法が優れる「元込め新式銃や大砲」、それらを主力とする「近代軍隊」が伝わり、約700年続いた武家封建制は崩壊し、四民平等と徴兵制が誕生する近代社会を日本は迎えることになりましたが、この再びの動乱期にも、津田出が主導した紀州藩は大改革を成し遂げ、近代政治の母体である「三権分立」、「皮革生産の産業化」、そして新式銃を主体とする「近代軍隊」を、中央政府に先駆けて創り上げ、日本近代史に大きな功績を遺したのであります。
 先述のように、何故、本州で唯一南海道に属する「紀伊国と紀州藩(和歌山県)」が、中世戦国と江戸幕末という2大変革期に、大きな活躍が出来たのか?と思う度に、歴史の奇天烈さを感じることを筆者は禁じ得ないのです。地理的環境によるものなのか?それとも紀伊半島には代々優れた人材が誕生するという人的資源によるものなのか?筆者如きの浅知恵者には、今もって迷宮入りしているほどの大問題でありますが、また引き続き探ってゆきたいと強く思っている次第でございます。



 今回は津田出が断行した藩政改革の中で、「身分制の解体」「近代政治機構の樹立」「徴兵制(交代兵)と西洋式軍隊」といった前掲箇条書き8個の内⓵~⓹まで記述させて頂いたのですが、殖産興業など残り⓺~⓼の3個は、また後日に譲りたいと思います。そして、(前回の記事でも書かせてもらいましたが)、津田出の晩年には酪農家としての一面のあり、元畜産業の現場に携わっていた筆者としては、彼に対して親近感もあり是非とも書きたい部分でもありますので、晩年期も書いてゆきたいと思っております。

(寄稿)鶏肋太郎

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