松平慶永(松平春嶽)~新しい日本のあるべき姿を模索し続けた幕末の賢候・政局が大政奉還に至るまでの経緯も解説

松平慶永(松平春嶽)

松平慶永(まつだいら-よしなが)は、江戸時代後期の文政11年(1828年)9月2日に徳川斉匡の子として江戸に生まれた、春嶽の通称で知られる福井藩・十六代藩主である。
春嶽は幼少から聡明であり、成長しても政治に関する見識は高く、親藩筆頭の藩主であることから常に江戸幕府における存在は大きかった。




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春嶽は、徳川一門の血縁関係が深く「敬幕」の立場であることは当然であったが、徹底した「尊皇」の人物でもあった。
春嶽は、凄まじい時代の変化にあって、私利私欲に走らず、全くゆがみのない政治思想を貫いたゆえに、行き詰まりが多い人生をたどる。
将来の日本の姿を模索し、春嶽は奔走を続けたが、薩長政府が成立したことで、結果的に頓挫した。
それまでに、春嶽の思い描いていた新国家の姿とは。

家督相続と改革断行

春嶽は、以前から松山藩主・松平勝善の養子になることが決まっていたが、越前松平家の松平斉善が若年で死去したため、跡継ぎがいないことから急遽養子とされた。
まだ11歳で福井藩・越前松平家の家督を相続した春嶽は、疲弊した福井藩の藩政改革に乗り出した。
春嶽は、倹約を奨励しながら財政整理を進め、積極的な殖産興業策を敷いた。
また藩校・明道館を創設し、洋学教育に力を入れるなど、教育の刷新も図る。




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人材なくして改革なしと考える春嶽は、藩士の三岡八郎や橋本左内を重用し、藩政改革を推し進めた。
嘉永6年(1853年)の黒船来航までは、攘夷を主張していた春嶽であったが、老中・阿部正弘と交流する頃から開国派に転じている。
阿部は、常に調和を重んじた政治家であった。
春嶽は阿部と出会ったことにより、政治思想が変わるほどの影響を受けた可能性はおそらくあったはずである。

安政の大獄により隠居謹慎に

生まれつき病弱であった十三代将軍・徳川家定の継嗣問題において、一橋徳川家当主・一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派と、紀州藩主・徳川慶福(徳川家茂)を推す南紀派が対立し、やがて幕府内の勢力を二分していった。
南紀派筆頭の井伊直弼は、次期将軍の選定については血統を重視するとして慶福を推し、また慶喜を嫌う大奥の支持を取り付けるなどして、一橋派を退けようとした。
一橋派が抵抗を見せ、事態が複雑化するなか南紀派の譜代大名は、直弼を大老に据えた。
大老に就任した直弼は、無勅許の条約調印を断行し、慶福を後継者にすることで強引に問題を決着させる。
当然反発を受ける直弼は、反対派を鎮めるため大規模な弾圧に乗り出した。(安政の大獄)
春嶽や徳川斉昭らは、無勅許の条約調印に怒り、登城して直弼に詰問したが不時登城の罪に問われてしまい、隠居謹慎に追い込まれた。
この頃、春嶽に命じられ京都で慶喜擁立に奔走していた左内も、直弼による弾圧によって捕らえられ、その翌年に処刑された。

文久の改革

強硬な直弼が桜田門外の変で暗殺されたことにより、幕府の政策は公武合体に大きく舵を切る。
桜田門外の変を境に、いよいよ幕政の弱体化は避けられないものになっていた。
文久2年(1862年)薩摩藩の島津久光は、公武合体を推し進めようと藩兵を率いて上洛し、まず自藩の尊皇攘夷派を粛清する。
そして久光は、朝廷の権威を利用して、強制的に幕府に幕政改革を促した。
外様大名の幕政介入により、朝廷から幕政改革の指示が下るという前例のない事態に幕府は動揺したが、もはや朝廷の意向に逆らう力は幕府にはなかった。
改革は、まず安政の大獄で追いやられた改革派を幕政の中心に戻した。
若年の将軍・家茂を補佐する役職の将軍後見職に慶喜を置き、大老に相当する役職の政事総裁職(せいじそうさいしょく)に春嶽を置いた。
また、会津藩主・松平容保は京都守護職に就き、京都の治安維持にあたった。
春嶽は、各藩の軍備強化を目的として参勤交代の緩和を進め、軍制改革や洋学研究の推進にも力を入れた。
そして自身の政治顧問として熊本藩から横井小楠を借り受け、迎え入れた。




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藩政改革で小楠は「民富」を唱え、領民を富ませる事業を積極的に行い、幕政改革では春嶽を補佐し、公武合体をさらに進める。
小楠は、春嶽に「国是七条」を提言し、幕政改革の基本方針を示した。
この小楠が書いた提言書は、これから目指すべき新国家の姿を訴えており、後に「船中八策」や「五箇条の御誓文」に繋がっていくものでもあった。

京都の混乱と挙藩上洛計画

京都には、過激な尊皇攘夷派が多く集まり治安が悪化していた。
文久3年(1863年)3月、家茂は朝廷から攘夷を迫られ、上洛したことでも幕政の弱体化は明らかであった。
長州藩の尊皇攘夷派は、公家の三条実美らと結託し、この両者は朝廷の実権を握るほどになっており、幕府に攘夷の決行日を決めるように迫ったのである。
春嶽は、このように幕府と朝廷から命令が出される政令二途が問題とし、これを解決するには、幕府が朝廷に政権を返上するか、朝廷が幕府に政権を更に委任するかを定め、命令が一ヵ所から出されるようにするべきと主張し、事態の収拾を図った。
春嶽独自の大政奉還論である。
しかし幕閣がこれを受け入れず、失望した春嶽は幕府に辞表を提出して福井へ帰国してしまう。
結局辞職が許可されず、逆に政事総裁職の解任のうえ、逼塞の処分を受けるという事態に、春嶽はこの国の将来を憂いた。
同年4月、攘夷決行について朝廷と協議していた家茂は、尊皇攘夷派のさらなる圧力に屈し「5月10日をもって攘夷を決行する」という約束をしてしまう。
直後、愚直に長州藩だけがアメリカ商船を砲撃した下関事件は、最後まで諸外国との衝突を避けたい幕府にとっては大きな誤算であった。
その中で6月に福井藩では、藩兵を率いて上洛し、新しい政治の仕組みを作ろうとする「挙藩上洛計画」が議論され、緊迫した雰囲気になっていた。
小楠は、藩兵四千を率いて上洛し、朝廷の実権を握る尊皇攘夷派を除き、しかるのち福井藩が佐幕派や反幕派の調停役となり、平和的に挙国一致体制を築こうとする計画を打ち出し、春嶽もそれが福井藩の使命であると考え賛同した。
一時、計画実行は決まりかけたが、家茂が江戸に帰ったことにより藩の計画は大きく揺らいだ。
尊皇攘夷派によって、京都に押し込められている将軍をお救いするという大義名分を失うことになる。
これにより、藩の上洛は時期尚早であり、前藩主・春嶽の上洛も不穏当とする慎重派は、また勢いづき藩論は二分したが、春嶽が計画に関わった家臣の職を解くという決断を下すことで「挙藩上洛計画」は中止になった。

八月十八日の政変と参預会議の崩壊

孝明天皇(こうめいてんのう)は、常に攘夷を望んでいたが、朝廷内外において過激な言動が目立つ長州藩に嫌悪感を抱いていた。
中川宮朝彦親王は、京都の治安を維持したい会津藩と、長州藩嫌いの薩摩藩と協力し、孝明天皇に同意の上で、長州藩やそれに近い公家を京都から追い出した。(文久三年八月十八日の政変)
そして、尊皇攘夷派が一掃された京都において、薩摩藩が政局の主導権を握った。
この時点で、まだ公武合体派の薩摩藩は、久光の建議で有力な大名経験者を朝議に参加させることで、公武合体の形を具体化していった。
参預に春嶽や慶喜や容保、前宇和島藩主・伊達宗城、前土佐藩主・山内容堂が任命され、翌年に久光も加わり参預会議が発足した。
参預会議の主な議題は、長州藩の処分と横浜鎖港であり、朝廷は横浜鎖港を特に強く望んだ。
参預諸侯の多くは、鎖港には反対したが、政局が薩摩藩の独壇場となるのを嫌った慶喜だけが鎖港を主張し、次第に参預会議は機能しなくなっていった。
この横浜鎖港をめぐる意見の隔たりで慶喜と久光が対立を深め、参預会議は崩壊する。

第二次長州征伐の失敗

参預会議の崩壊後の諸侯の帰国で、京都は公武合体派が手薄になったが、追放された長州藩士の一部は、潜伏を続け再起を図っていた。
長州藩は池田屋事件で、多くの尊皇攘夷派の藩士が殺害・逮捕されると、憤慨した急進的な勢力が、公武合体派の排除を目指し藩兵を率いて上洛し、御所に向けて攻撃を開始した。
会津藩や薩摩藩を中心とする幕府軍は、蛤御門付近で交戦し長州藩兵を敗走させた。(禁門の変)
これで長州藩は朝敵となったが、前年の下関事件の報復で、米・英・仏・蘭の連合艦隊が、下関を攻撃した四国艦隊下関砲撃事件が起こったことで、さらに追い討ちがかかった形となった。
長州藩は、禁門の変で朝敵となるなどでは、幕府と一戦を交える状況ではなく、元治元年(1864年)に起こる第一次長州征伐は、長州藩の謝罪降伏という形で終わっている。
こうして長州藩は、幕府に対して恭順の意を示す保守派が多くを占め、ついに尊皇攘夷派の勢いに陰りが見え始めたが、高杉晋作を中心とする尊皇攘夷派がクーデターを成功させ、これ以降の長州藩は、倒幕へと突き進む。
この動きに対して幕府は、慶応2年(1866年)威厳回復を目論み、勅許を得て長州再征に動き出す。
幕府は、各藩に出兵命令を出すが、薩長同盟を踏まえたことでの薩摩藩の不参加で、足並みが揃わなかっただけでなく、水面下では長州藩が薩摩藩名義での最新武器購入を実現させており、思わぬ苦戦を強いられ、7月に大坂城に在陣していた家茂の死去で休戦が宣言され、第二次長州征伐は幕府の事実上の敗戦に終わった。

大政奉還と王政復古の大号令

参預会議の崩壊後の京都の政局は、慶喜の独裁色が強まり、さらに混迷した。
慶喜は将軍後見職を辞して、禁裏御守衛総督に就任すると、一橋・会津藩・桑名藩で構成された、一会桑政権(いちかいそうせいけん)を形成していく。
一会桑政権は、孝明天皇を後ろ盾に、第一次・第二次長州征伐を慶喜主導で敢行した。
幕末の政治権力は、将軍を擁する江戸の幕府と、敢えて幕府と距離を取り、天皇を後ろ盾に影響力を持つ、京都の一会桑政権とに分かれていたといってよいであろう。
徳川宗家を相続した慶喜は、春嶽などからも再三将軍就任を要請されたが、なぜか断固拒否した。
混迷を極める日本の舵取りは困難ではあるが、いずれ回ってくるであろう将軍就任については、情勢を見極めた上で、敢えて口を閉ざしていた。
慶喜は家茂死去後、長州藩との休戦交渉に当たらせるなどのお膳立てを整え、慶応2年(1866年)ようやく将軍に就任したが、直後に公武合体を理想としていた孝明天皇が崩御する。
将軍・慶喜にとって大きな痛手だったが、ここで引き下がらないのが慶喜であり、フランスの力を借りて軍制改革に着手するなどの幕政改革に乗り出した。
こうしたなかで、薩摩藩は政局を打開しようと四候会議を開催する。
参預会議の崩壊以降、春嶽はしばらく福井にいて政局を見守っていたが上洛を求められ、参預会議と同じ顔ぶれの四候会議が発足した。
四候会議の主な議題は、長州藩の処分と兵庫開港であったが、孝明天皇は兵庫開港に強く反対していた。
しかし慶喜は、孝明天皇の崩御によって兵庫開港を独断で進め、ついに勅許を取り付ける。
慶喜は、日本における政府は徳川幕府であり、外交権はその幕府にあるのだと内外に示そうとした。
四候会議で薩摩藩は、雄藩連合政権への移行を目指していたが、慶喜が将軍である以上は実現不可能であるとして、倒幕へと舵を切る。
こうした倒幕の動きに対して、土佐藩の勧めに応じた慶喜が、政権を朝廷に返上したのが大政奉還(たいせいほうかん)である。
幕府はなくなるが、徳川の実力は何も変わらない。
慶喜は、現状は能力がない朝廷に、政権を形式的に返上して、次の新政府でも主導権を握ろうと目論んだ。




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その慶喜自身が政権を返上したことで、倒幕の大義名分を失った倒幕派が、天皇を中心とする新政府の樹立を宣言したのが王政復古の大号令であった。
王政復古が宣言された夜に、御所内の小御所にて慶喜を除外しての最初の会議が行われ、新政府は徳川の処分について討議し、慶喜に対し内大臣の辞職と、領地返納を命ずる決定した。
これには、徳川一門の春嶽も黙っていられず、慶喜が行った大政奉還は、挙国一致体制で国難に向かうためのもので、薩摩藩も同じ方向を向くべきであると反論したという。
公武合体派の中心にいて、一時は挙国一致体制を推進しながら、手のひらを返し幕府を裏切り、内乱まで起こそうとする薩摩藩の行動は、春嶽にとって許しがたいものであった。
二条城の慶喜は、会議の決定を春嶽から伝えられると、会津・桑名藩兵を率い大坂城へ入ったが、これは内乱を回避するための春嶽の措置である。
大坂城に入った慶喜は、各国公使と会見し、外交では自分が主催者であることを改めて公言するなど、薩摩藩を倒すための基礎を固めていた。
もともと薩摩藩の強硬路線は、支持を得ていなかったので、慶喜からすれば何も焦る必要がなく、自滅を待てばよいのだ。
慶喜は大坂城で、倒幕の大義名分が必要な薩摩藩による挑発行為などで、殺気立つ家臣たちを、うまく抑制していたが、江戸薩摩藩邸の焼討事件が起こってしまう。
これで鳥羽・伏見の戦いへと発展していくことになるが、この事件で春嶽が望んだ慶喜の新政府入りも絶たれることになる。

思い描いた新国家の姿

新政府において、春嶽は内国事務総督に就任し、福井藩の危機を救った小楠や三岡も参与として加わった。
薩摩藩が信用できなかった春嶽にとって、小楠や三岡が新政府に加わったことは、大きな意味があった。
小楠に師事した三岡は、藩政改革において小楠の思想を具体化してきた。
そして三岡は、招聘された新政府の基本方針である、五箇条の御誓文の原案を書いたのである。
この五箇条の御誓文の発布によって春嶽たちの努力が実を結び、政治思想も形として反映された。
原案は、武士も庶民もなく能力ある者が天皇を中心として国家を発展させる、政治を行う者は長く地位に留まらず期限をつけて入れ替える、政治の事は必ず議論で決定する、という内容であった。
春嶽は、その後も続いた時代の変化を感じ、明治3年(1870年)政務を退き、慶喜の助命嘆願や、執筆活動などを行いながら余生を過ごした。
春嶽の人生は行き詰まりが多く、新国家の姿も決して理想ではなかった。
春嶽の政治手法は実に穏健であり、見方を変えれば朝敵や裏切り者などの汚名を着せられることもあった。
歴史は勝者が作るのであれば、福井藩は確かに勝者ではないのだから、歴史に残した功績は大きくはないかもしれない。
しかし、彼らの残そうとした功績は、今もはっきり残っている。
松平慶永、明治23年(1890年)6月2日、東京の自邸で死去、享年63歳。




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海晏寺に春嶽の墓がある。(品川区南品川5-16-22)

(寄稿)浅原

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