近代の偉人の感染症に対する挑戦ついて

こんにちは。令和3年(2020)から続くコロナ禍。
コロナ禍より、アルコールによる手指の消毒をする機会が増えてきました。
スーパーマーケットやコンビニなどの店舗、国内のほぼ全ての企業や各市区町村の役所にも入り口にアルコール消毒剤が設けられ、公共施設のトイレにあるハンドドライヤーも使用禁止になっています。
 その他にもコンサートやプロレスなどのイベントの際にも換気や消毒の時間をタイムテーブルに入れているくらいです。
パンデミックにより生活様式が一変した日本。
そんな日本において公衆衛生の概念が本格的になってきたのは、近代化以降になる明治30年(1897)に伝染病予防法が施行されたあととされております。
それまでは、養生訓や大和本草などを編纂した貝原益軒や、適塾を主催し、天然痘にかかった牛のワクチンを人間に接種する種痘法を行った除痘館の解説にも関わった蘭学者の緒方洪庵などにより、それまでは、不治の病とされていた天然痘の感染リスクを下げるのに成功していた訳です。
が、全ての感染症への予防リスクとなる学問の衛生学が全国民に浸透したわけではありません。
明治期に外務大臣や欧米各国の駐在日本大使を歴任した青木周蔵などは、ドイツ公使時代に当時、ドイツに軍医として伝染病の権威、コッホの元で修行をしていた森林太郎(後の文豪、陸軍軍医総監の森鴎外)に、「平気で人前にて鼻をほじる日本人に衛生学など理解できるものか。」と冷たくあしらったという逸話も遺されているほどです。
まあ、鴎外も脚気が細菌により引き起こされるものと判断して、医学的に失敗したことはありますが。
(脚気はビタミンB1の不足により起こります。)
そんな日本に伝染病そのものの研究を推し進めた男がいます。
それが新1000円札の顔、北里柴三郎なのです。
北里は幼少期に弟2人と妹を当時(江戸末期)の日本において大流行していたコレラにより亡くしております。
そのような辛い経験を乗り越えて東京医学校を卒業し、ドイツのコッホの元で修行を行い、破傷風菌の純粋培養やペスト菌の発見など数々の功績を遺しました。
個人的にはこの方がノーベル賞を受賞できなかったのが不思議なほど医学的に大いなる影響を与えております。
北里柴三郎は福沢諭吉の支援により伝染病研究所を設立し、伝染病予防法の成立に尽力するなど近代日本の感染症研究の祖と言っても過言ではありません。
北里柴三郎が令和4年(2022)現在の野口英世からバトンタッチを受ける2024年までにコロナ禍が明けることを真に祈っております。
北里柴三郎やその親友の後藤新平が天から見ているなら、何を思うでしょうか。
今回もご覧下さり、ありがとうございます。
それでは次回もお楽しみに。

(寄稿)リストクラッチ式ショーイチ

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