誰もが知る福沢諭吉という人物とは~近代日本で多角的に活躍した啓蒙家の実像とは

 こちらのサイト(『幕末志士本家』や『武将の道』等々)の愛読者にして、筆者が提供させてもらっている記事もよく読んでくれている有難い親友・F氏がいます。(と言っても筆者より年長者の大先輩です)
 そのF氏も日本史通の1人であり、特に江戸幕末史関連になると、坂本龍馬高杉晋作といった当時の偉人の生涯・逸話については勿論、彼らが全身全霊に生き抜いた混沌とした日本情勢や世界列強諸国の政治的動静にも相当なる知識量と洞察力がある方で、筆者も色々と教えを受けており、親友F氏には強い尊敬の念を抱いている次第でございます。




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 先日そのFさんから連絡が来ました。その遣り取りが以下の通りです。

F氏『キミ(筆者)の記事を最近読んだけど、最近は鎌倉時代モノばかりだね。やはりNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響だろう。それも結構なことだと思うのだが、キミは、よく言えば驥尾に付しているし、悪く言えば尻馬に乗っている感じだよ(笑)』

筆者『それはどうも。図星ですよ。三谷幸喜さんの大河ドラマが、あまりにも面白く、世間でも大いに話題になったので、その潮に悪ノリした感もあります』

F氏『先日、久しぶりに君が以前書いた長編の津田出や幕末の博識・西周についての記事を読んだけど、その記事の結びで、君は「後日、もう一人の博識人・福沢諭吉についても書きたい」と述べているけど、いつ書き上げるの?』

筆者『(心中:しまった。すっかり忘れた)そのうち書きますよ』

F氏『ふーん。まぁ楽しみにしているよ。僕は福沢諭吉のことを尊敬しているから、君がどのように諭吉の事を書くか興味があるよ』

筆者『あまり発破をかけないで下さいよ』

 以上のような流れでFさんと筆者の遣り取りが終わった次第ですが、最後にFさんが「ふーん」と返答した語感は、正しく「コイツ、また書き流した状態で、そのまま終わらせる気でいたな」という筆者の悪癖(先延ばし)を見越し、明らかに皮肉が込められている感でありました。
 筆者も、以前書かせてもらった西周の記事を読み返してみると、なるほど。確かに「次回は福沢諭吉について書きたいと思います」というように記しています。丁度鎌倉殿の13人も終わったことですし、またFさんからご指摘や揶揄を頂戴しないように、今のうちに江戸幕末から明治中後期にかけての偉人・福沢諭吉について追ってゆきたいと思います。

 親友F氏と筆者の取り留めもない遣り取りについては、以上までにさせて頂きまして、今回はあまりにも有名な『福沢諭吉(1835~1901)』について追ってゆきたいと思っているのですが、ここで筆者は迷いを抱いている次第でございます。
 福沢諭吉は、「日本銀行券 一万円券」(通称:1万円札、昨今の筆者所有の財布中には見掛けませんが)の表面を飾る人物としてお馴染みであり、いわゆる東京六大学の1つに数えられる慶応義塾大学の創始者(教育者)としても知られ、また『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず(以下、略)』から始まる時代を超える名著『学問のすすめ』の著作者(啓蒙家)としても有名であります。他にも翻訳家としても多大な業績を遺しており、「演説」「討論」「社会」「独立」「健康」「競争」「家庭」といった現代人の我々でも日常会話で使われている日本語を、外国語から訳出したのも福沢諭吉であります。
 因みに、近現代の学校経営でも欠かせない『授業料』という名前とシステムを日本で創設したのも福沢諭吉であり、そういう意味では、教育者と同時に学校経営者(大仰に言えば経済評論家)の顔を福沢は有していたと言えます。
 実際、福沢は米国の商業学校の簿記教科書を『帳合之法』として翻訳し、日本で初めて西洋簿記(複式簿記)を紹介し、また現代商工業ではお馴染みの「特許権(Patent/パテント)」について自著『西洋事情』で解説するなど、近代経済学の先駆者でもあります。また旧幕軍の彰義隊と明治新政府軍が雨の中、江戸上野で激突した上野戦争(1868年7月/慶応4年5月)で世間騒然としているにも関わらず、福沢諭吉は慶応義塾(当時は芝新銭座に所在)で経済学を講義していたのも有名な逸話であります。

 混沌極まった江戸幕末期から近代国家の黎明期である明治期において、『教育者』『学校経営者』『経済学者』『啓蒙思想家』『翻訳家』と多方面で八面六臂の活動をした偉大なる福沢諭吉先生であり、この人物の多岐にわたる活躍と後世まで遺る業績を敢えて譬えるなら、様々な食材で彩られた「豪華懐石料理」と思えます。
 もし粗野なる筆者が、場違いなる高級料亭や高級ホテル内のレストランで、豪華な山海の食材、絶妙な味付けによって完成された懐石料理を目前にしたら、どの食器から手を付けて、どのような順序で料理を賞味していけばいいのか?という悩みを抱え途方に暮れることは自明の理であります。
 正しく現在、この記事を書いているに当たって豪華懐石料理の趣がある福沢諭吉という多岐にわたる活躍した偉人のどの部分から箸を付け、口に運んでゆけばいいのかということを未だに悩んでいるのです。前述の迷いとは、この事であります。
 白状すると、冒頭に挙げたF氏の遣り取りで福沢諭吉の事を書くのを筆者は失念していたのではなく、福沢諭吉という巨大かつ多種多様な才能を有する逸材をどのように迫ってゆけばいいのか、筆者如きの頭脳では整理しきれなくなり途方に暮れていた、ことが本当の理由もあったと思えます。
 事実、福沢諭吉が持つ多様な才能、更に穿った見方をすれば多才を開花させた福沢の『人格』の多角さについて語っているのが、福沢から直に薫陶を受けた「林毅陸(はやしきろく、慶応義塾6代目塾長、初代愛知大学学長などを歴任)」という人物です。
 林毅陸は佐賀県出身で、後に日本外交史研究の泰斗と称された偉大なる近現代の学者ですが、その彼は福沢諭吉が没した後、『故福沢諭吉について』(帝国六大教育家=明治教育古典叢書14 所収)と銘打って、亡き恩師・福沢について以下のように談じています。

『福沢先生の人格は、複雑で多角形である。学者風でもあり、道徳家風でもあり、破壊的な革命家の風があるかと思えば、また建設家の趣もある。冷たい諷刺家であるかと思えば、涙脆い侠客的なところもある。』
『金銭とか商売とか、浮世の俗事を喜んで談ずる俗物かと思うと、超然悟脱している禅宗坊主のようなこともある。奇矯の言を弄ぶこともするけれども、常識に富んで、思想の平均を保っている。』

 『学問のすすめ』にて、明治期国民1人1人に対して欧米諸国から伝来した平等と自由・国民義務・勉学に対する姿勢、それらから生みだされる『一身独立』といった先進的な啓蒙思想を説いていることは、正しく林毅陸が評するが如く、江戸期の身分制度を改めようと奮闘する破壊的革命家であり、日本国民の民度を上げることにも身を惜しまなかった道徳家風でもあります。
 しかし一方で、自伝『福翁自伝』を読んでみると、福沢諭吉本人が『天性の悪癖』『生涯の大損』と称するほどの「少年の頃より大酒飲みであった」ことを平然と白状するかと思えば、青年期になり大坂の適塾(蘭学者・緒方洪庵の私塾)に学ぶようになってからは、塾生の猛勉強、熊の解剖実験や敬慕した師・緒方洪庵との絆といった美談などが書いてあるかと思えば、「禁酒をしようとしたら、その禁断症状を紛らわすために喫煙したら、生涯タバコを止められなくなった」や「虱(しらみ)が湧く衣服を平気で着用していた」など失敗談や『浮世の俗事を喜んで』書いているように見受けられます。
 少年~青年期では門閥制度の弊害によって苦心させられながらも、壮年~晩年(明治期)になると大教育家として大成した福沢諭吉が言った有名な文句の1つに『門閥制度(筆者注:世襲武士制)は親の仇でござる』(福翁自伝)があります。
 福沢諭吉の父・福沢百助は、豊前中津藩(譜代大名・奥平氏10万石、現:大分県中津市)の下級藩士の出身であるがために、理財能力に長けた有能な吏僚でありながらも江戸身分制(門閥制)の壁によって辛酸を嘗め、小役人として短い生涯を終えた父(享年45歳)を少年・諭吉は直に見ていたのであります。
 一生小役人として亡くなった父・百助の存在も一因となり福沢諭吉は、旧態依然・因循姑息で凝り固まった中津藩、ひいては武士の世(門閥)を嫌悪しきったがために、上記の冷たい『諷刺』を露わにしたのですが、また諭吉本人も、青年期には同藩の上級武士・奥平壱岐(その父も含む)にも陰湿なイジメに何度か遭っていることも福翁自伝で書き殴っているので、能力が無いにも関わらず代々エラそうしている高級武士を闊歩させている門閥制度は諭吉自身にとっても憎むべき仇であったのです。
 この少年~青年期の福沢諭吉が味わった鬱憤が、諭吉の勉学邁進の起爆剤となり、大学者として成長していったのです。因みに福沢諭吉が説く「勉学」とは武士階級の教養原典となった儒教(朱子学、四書五経)のような学問のための学問ではなく、実生活や生涯に渡って役立つ学問、即ち諭吉本人が説くところの『実学』であり、例えば諭吉実学の基礎となった語学(蘭語・英語)があり、その他にも計数・地理・史学といったものです。先述のように、福沢諭吉が簿記の教育普及に熱心に努めたことも、諭吉本人が実学を重んじていた好例の1つとも言えます。
 福沢諭吉は、因循姑息なる臭いが強い学問のための学問の代表例である朱子学などの中国古典礼教には否定的な立場を採っており、儒学には通じているが生活していけない学者たちを『世の中には役に立たない、ただ食うだけの字引なり』(学問のすすめ)と酷評しています。

 一般的に福沢諭吉は、武士の門閥制度・排他的行動思想(攘夷志士)・不合理に凝り固まった古典的儒教を徹底的に忌避し、江戸幕末に最先端的かつ合理性に横溢した西洋思想や学問を志したハイカラな学者(悪く言えば、当時の悪語であった「西洋傾ぶれ」)というイメージが強いです。確かに一方ではそれが事実なのですが、他方では、諭吉も卑賤ながらも武士出身者ですので、やはり古武士的精神、藩主に対する忠義・義理も持ち合わせた(前掲の林毅陸の評が如く)侠客的かつ古武士的な雰囲気も持っていたのです。
 あまり知られていないと思うのですが、福沢諭吉は青年期、「居合(抜刀術)」にも精進したほどの達人という武士らしい側面を持っていました。(尤も諭吉本人は、攻撃用のために居合に励んだわけでなく、心身を鍛錬するための武術、即ちスポーツとして割り切っていました)
 福沢諭吉が古武士的精神を有していた証としてよく知られているが、1891年(明治24年、実際に出版されたのは1901年/明治34年)に諭吉が著した『瘠我慢の説』であります。
 これは江戸幕府に仕えた直臣出身者でありながら、明治新政府にも出仕して顕官となった勝海舟榎本武揚の2人を批評した内容になっているのが特徴であり、江戸城無血開城から函館戦争での勝・榎本両人の行動には一定の評価を下しつつも、幕府瓦解後に旧幕への忠義を忘れ、新政府で立身出世した変身ぶりことを攻撃、結論では両人を『痩せ我慢が足りない』と批判しているのであります。
 福沢諭吉が新政府で栄達する旧幕臣の勝海舟と榎本武揚を批判している背景には、諭吉が海舟を嫌っていた、諭吉が初渡米への便宜・慶応義塾開校時に尽力した大恩人の旧幕臣・木村芥舟(喜毅。木村摂津守で有名)が新政府に仕えることなく終生清貧(瘦せ我慢)を貫いた人格を敬慕していた、という感情的理由もあったと思われますが、諭吉本人が、西洋伝来の自由平等・近代政府などの推奨者でありながらも、心底には恩義や忠を重んじる古武士的精神を蔵していた証拠であります。また福沢諭吉本人も、新政府から出仕要請や栄爵の下賜の話がありましたが、固辞し続けて、一平民として生涯を終えています。
このように、福沢諭吉が抱いていた両極の考え方あるいは物の捉え方を良く言えば「和魂洋才(和洋折衷)」、悪く言ってしまえば「アンビバレンス(両面感情)」とも言えるでしょうか。




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 白状すると諭吉の複雑かつ多角的な性格を追ってゆけばゆくほど、筆者如きの輩には、偉大なる諭吉先生が有していた人格、そして後世まで語り継がれることになる多才と実行力が諭吉に宿った理由が益々わからなくなってくるのが否めませんが、前掲の福沢諭吉の愛弟子の1人であり、「福沢先生の人格は、複雑で多角形である」と言った林毅陸は、また同時に諭吉の本領は『極めて熟誠の男子(筆者意訳:誠実さに溢れた人物)』(「故福沢先生に就いて」)とし、更に『日本の華であるところの気骨の稜々たる武士的精神の上に、西洋風の自由・独立の精神が加わって、一つの人格が出来上がっている』(「同上」)と、諭吉から直に薫陶を受けた林は亡き師のことを「和魂洋才」の典型として評しています。
 世界列強に比肩する近代国家を創るために、困難な道に敢えて向かっていくような逞しい心意気と向学心を兼ね備えた武士道精神を胸中に蔵する一方で、外見では飽くまでも柔軟にして、海外の良き思想・
文化・技術をよく吸収し自家薬籠中の物として、国家建設に役立てるという、正しく和魂洋才の傑物は、福沢諭吉をはじめ江戸幕末~明治期に数多に存在したことは確かであります。
福沢諭吉と同じく明治草創期の人物では、諭吉が嫌った勝海舟(勝安芳)、哲学者の西周や「西国立志伝」を書いた中村正直(敬宇)、鉄道産業を普及させた井上勝などがそうであり、少し時代が下り明治中期頃になると本格的な洋行(留学)を経験し、偉大なテクノラート的存在となった海軍軍人の秋山真之、学者の南方熊楠といった当代きっての傑物たちも、和魂洋才の基礎とした人物であったと思えます。
 福沢諭吉を含め明治日本を官民両方から支えた上記のような人物たちは、強靭な精神と類稀なる才知を擁していたことも確かですが、何よりも彼らが有していたのは、「正直」「謙虚」の心であり、それが彼らを時代の立役者になるほどの活躍ができた主因ではないか、と筆者は思えるのです。林毅陸が福沢諭吉を評した如くの『熟誠』であります。
 江戸封建制(門閥制)に虐げられてきた若年期の軽輩者・福沢諭吉には、上昇志向が強く、低能でありながら高位を貪る門閥武士たちを喰って懸かるような鋭利すぎる気概と実直さを感じる所が多々あるのですが、また同時に身分制や物事に滅多に動じることなく、自分が良いと思ったことは脇目も触れずに邁進する正直な人物であったと思えるのです。特に教育者/啓蒙家として大成した中高年になると、いよいよ正直な性格が顕れていると思います。
 その好例が1つあることを幸いにも筆者は知っています。福沢諭吉の教え子の1人で教育者、後に実業家としても活躍した鹿児島県出身の山名次郎という人物が著した『偉人秘話』(1937年、実業之日本社 敢行)という名著がありますが、その中に山名の恩師である晩年期の福沢諭吉を、山名の同郷の先輩にして日本帝国海軍を創設者である海軍大臣・山本権兵衛(「日本海軍の父」として有名)が訪問した話題が載っています。
 それに拠ると、海軍大臣であった山本権兵衛は部下である海軍中佐・木村浩吉(前掲の旧幕の軍艦奉行・木村芥舟の次男)の紹介で、福沢諭吉宅を午前9時に訪問することになり、諭吉とその妻である錦さんと対面。正午には昼食なども振舞われ、その後にも諭吉と権兵衛は対談が続き、午後4時に権兵衛は福沢宅を辞して、その日は遂に権兵衛は海軍省に出仕しなかったそうです。後日、山本権兵衛は福沢諭吉の偉大さについて荘厳な口調で以下のように述べたそうです。

『自分(筆者注:山本権兵衛)はこれまで、多くのえらい人に会っているが、えらい人というものは自分の手柄話をしようとする。だから私は、それをまた聞かされるのかと思っていた。ところが先生(同注:福沢諭吉)は不思議な人で、少しもそれをせられないばかりか、自分の見込み違い、食い違いから失敗した話ばかりをせられた。(中略)これは実にえらい人だと、頭が下がった。』

 日露戦争の海軍決勝戦と言うべき「日本海海戦」は、日本海軍の完勝であったことは周知の通りですが、その勝因最大要素、即ち敵艦(ロシア・バルチック艦隊)より優れた速力や速射砲を揃えた連合艦隊(六六艦隊)を配備、人事面でも連合艦隊司令長官・東郷平八郎、前掲の秋山真之といった俊逸な海軍士官や兵員を抜擢、訓練・実戦で必要な砲弾や石炭・無線通信を不断に供給する兵站(戦務)といった優れた海軍を創設したのは、海軍大臣であった山本権兵衛の功績であります。
 その偉大なる山本権兵衛(後に第16代・22代の2度、内閣総理大臣に就任)は、既に教育者として大成功を収めているにも関わらず、驕慢になることなく失敗談を平然と語る福沢諭吉の正直さを絶賛しているのであります。
 『英雄は英雄を知る』(三国志)という故事があるように、一方の福沢諭吉の方でも、『あれは軍人ではなくて学者だ。薩摩の奴は、全体に数学は分らぬが、山本は徹頭徹尾マセマチカル(筆者注:数学的/mathematical)に出来ている。』というように、山本権兵衛の非凡なる能力を絶賛していることを、山名次郎著の「偉人秘話」に記されています。
 後半における福沢諭吉の山本権兵衛評は、今記事内では、飽くまでも余談的なものとさせて頂きますが、要点は権兵衛のような一代の傑物が、既に晩年期に至っている福沢諭吉の正直さ、権兵衛の言うところの『偉さ』を大真面目に賞賛していることであります。
 兎角、若年期には苦心惨憺の末に、壮年期には大成功を収め、社会的にも称揚される一大人物は、晩年期になると老耄甚だしく、過去の成功体験に固執し、己の能力の高さを殊更吹聴する(いわゆる武勇伝)ことを好む傾向が多々あります。
 もしかしたら読者皆様の周囲にも上記の老耄な人が存在するかもしれませんが、過去では中近世期の豊臣秀吉、「三河物語」の 作者・大久保彦左衛門(忠教)、更に強いて挙げれば福沢諭吉の嫌悪対象であった勝海舟などには、特にその老耄さを筆者は感じることを禁じ得ないのですが、福沢諭吉にはその老耄さは無いのであります。
 福沢諭吉が壮年~晩年期に書いた『学問のすすめ』や『福翁自伝』を読めば解るのですが、前著では、只々学問せよ、と強調しているのでなく、諸外国に負けぬ日本国にするために一人一人の国民が一身独立を図る、そのために学問が必要なのであると説き、また当時では珍しく男尊女卑を厳しく批判することを含めた『自由平等』をも主張しています。因みに、福沢諭吉が絶賛した前掲の剛腕なる海軍大臣・山本権兵衛も、政府顕官の身でありながら一平民出身の正妻・登喜子夫人(一説には遊女出身と言われています)のみを終生大切にし、自分で掃除や布団の片づけ、裁縫などをするといった家庭内では良き夫・父親でした。
『福翁自伝』を読んでみても、自分の成功体験を誇張するような描写は一切無く、前掲のように、「大酒飲み」「愛煙家」などの個人的失敗、壮年期になり江戸幕府の命令で欧米諸国に渡航した折の失敗談などを赤裸々に書き綴っています。
 『学問のすすめ』『福翁自伝』の両著は、福沢諭吉が記した数多の著作の中でも、双璧を成す俊逸なものであると思っていますが、このように世代を超え多くの人々の胸を打つ歴史的名著を著わせることができたのは、福沢諭吉が生来の正直者であったからだと思えるのです。




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今記事の前中盤当たりで、筆者は、多角的な活躍をした福沢諭吉は、「箸をつけるのも躊躇するような豪華懐石料理のような人物」というように、諭吉という偉人は何やら掴みどころが難しい感情に気圧されていましたが、諭吉の愛弟子の1人である林毅陸の諭吉像、山本権兵衛との邂逅などの逸話集を追っていきますと、福沢諭吉という人物の最大の魅力は正直さにあっただ、ということが、筆者なりの結論であります。

(寄稿)鶏肋太郎

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