楢山佐渡~戊辰戦争で最後まで「武士道」を貫いた盛岡藩士

楢山佐渡とは

楢山佐渡(ならやま さど)(1831年~1869年)は江戸時代末から明治維新直後まで盛岡藩士として活躍した人物である

幼少期から青年期

1831年、盛岡藩家老楢山帯刀隆翼(ならやまたてわきたかくに)の子として生まれる

幼少から恵まれた環境で育ち、6歳で藩主南部利済の相手役として選ばれた

城の中で、南部利済の子・利義・利剛の遊び相手にもなり、藩主の政治を近くで見ながら成長した

その実直な人柄・能力が買われ、22歳の若さで正式に家老に就任した

家老に就任した佐渡がまず直面した課題は、1853年東北史上最大と呼ばれた一揆・三閉伊一揆※の鎮圧だった

※三閉伊一揆:1847年と53年に起こった百姓一揆。盛岡藩領の太平洋沿岸一体は三閉伊通りと呼ばれ、漁業が盛んだった。財政窮乏から、漁業者たちの商品を藩の専売品とし、臨時の税も課した。これに反発した農漁民1万人が2度にわたり、一揆を起こし、仙台藩へ渡り悪政を訴えた。結果、仙台藩が仲裁に入り、三閉伊一揆指導者を処罰しないなど寛大な処置を認めさせ、鎮まった

一揆の深刻さに頭を悩ませた藩主・南部利剛(1826~1896)は、家老たちにすぐ鎮圧に取りかかるよう命じた

しかし、簡単に「鎮圧します」と言える規模の一揆ではなかった

楢山佐渡「百姓ではなく、藩主側に非がある」

その時、南部利剛に意見を出したのは、楢山だった

意訳すると以下のような内容である

「鎮圧に行かないのは、一揆がこわいからではない。私たちをふくめ、藩主側に3人の裏切り者がいるからである。この3人が農民にすごく恨まれているので、(この3人を)何とかしない限り一揆はいつまでもつづく。非は百姓でなく、我々藩主側にある」

家臣に裏切り者がいること以上に、自らの政治を否定されたように感じた(「藩主側に非がある」という部分)のか、南部利剛はこれに激怒した

そして、佐渡に免職を言い渡す

しかし、その後農民側の言い分を聞いた結果、

横沢兵庫(1803~62)、石原汀(1826~1905)、田鎖茂左衛門(1804~1860)の3藩士に強い不信感を持っていることがわかり、3藩士を処分した

これにより、一揆は収束に向かった

その後、筋の通った意見を言っていた楢山も復職が認められる

佐幕か薩長か?藩を二分する戊辰戦争

1868年、江戸幕府と新政府軍の戦い(戊辰戦争)がはじまり、盛岡藩では幕府側か総督府(薩長側)どちらにつくかで揺れた

そこへ朝廷から1通の便りが届いた

朝廷が藩の代表を集めて今後の方向性を決める会議を行うため、京都へ集まるよう呼びかけるものだった

南部利剛は体調面に優れず、京都までの長旅は重荷であった

では、誰を京都へ向かわせるか?

この時、盛岡藩の中には、守旧派(江戸幕府体制を守りたい)と開明派2つの考え方があった




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楢山佐渡のライバル・東中務(ひがしなかつかさ)

守旧派を率いていたのが楢山佐渡で開明派を率いていたのが、東中務(ひがしなかつかさ)(1835~1911)だった

楢山と同じく若手の家老で、強い責任感とリーダーシップをもち、楢山と互いに競い合うライバルだった

東は藩主・南部利剛より財政再建策を任され、大奥の人員削減や・遊郭廃止など矢継ぎ早にコスト削減の改革策を打ち出した

楢山も東もその実績や働きぶり・人物故に慕う者が数多くいた

影響力の強い両人物ゆえ、のちのち楢山派・東派という派閥まで形成された

それは幕府守旧派(楢山派)か総督府(東派)かという対立構図を生み出すことにもなった

武士道を貫き武士の世を守りたい楢山

幕府の威信低下を見抜き、新時代の到来を予測していた東

2人の間には明確なビジョンの違いがあった

藩主・南部利剛の決断“京都へ楢山佐渡をおくる”

藩主・南部利剛はこの問題をどう捉えていたのか?

もともと南部の藩主という立ち場は、江戸幕府あってのもの

天皇に背く考えこそないが、幕府側につくことを考えていた

薩長を中心とする世に移り変わろうとしていても、幕藩体制崩壊が現実的になることは、

まだ多くの人がイメージできていない時期だった

南部利剛にとって藩で力を握り、総督府を支持する考えを持つ東は邪魔になる

もともと東には「財政改革」を任せていたのに、何かと藩の方針にも口を挟んでいた

これらの事もふまえて東を要職につけたままにできず、免職とした

とはいえ、藩の中には総督府につくことを考えるものも多い

藩としての方針がなかなか決まらず、遠い京都で実際に何が起こっているのか

盛岡藩は情勢を探ることにした 南部利剛はこの大役に、楢山佐渡を指名した

楢山が京都で見た薩長

楢山は京都で段取りをつけ、西郷隆盛と面会した

西郷隆盛の薩摩藩邸宅に呼ばれた楢山は西郷のもてなす姿に驚嘆する

まず驚いたのが、その服装であった

あまりに簡易な服装で、楢山が考える武士の客人のもてなし方とは全く異なっていた

また、西郷らが好んで食べていた牛肉鍋(現代でいうすき焼き)を大はしゃぎして食べている

また、公家の岩倉具視と面会した際にも、岩倉が心底薩長を信頼していたわけではなく、

「番犬として最も強い力を持っているから、味方にした」というようなことを口走る有り様だった

“この有様では薩長の世が到来したとしても長く続くことはない“

楢山は京都での出来事を通して、そう感じていた

奥羽越列藩同盟の結成~戦いの舞台は東北地方へ~

1868年に江戸城が無血開城され、総督府のまなざしは会津藩・庄内藩に向けられていた

薩長(特に長州)にとって、尊王攘夷運動を展開した長州藩士を次々弾圧した京都守護を担った会津藩は目の敵

必ず征伐したい相手でもあった

しかし、会津藩・庄内藩を倒すには2藩を囲む東北諸藩の力も必要だった

会津征伐を求められた東北諸藩は、征伐に参加するかの決断を迫れたのである

幕府側にいた会津藩征伐に参加することは総督府に味方することを意味し、

会津・庄内藩討伐を断ることは幕府に味方することを意味した

盛岡藩は、討伐ではなく会津藩に謝罪と反省の姿勢を示すよう意見した

東北諸藩で戦い合い、互いに消耗するメリットは何もないからである

会津藩が謝罪をして赦免されることで、戦いや犠牲者を最小限にしたいと考えていた

盛岡藩は早速仙台藩にかけあったが、仙台藩は当時すでに討伐軍を送ることを決めていてこれを断った

結局盛岡藩は、会議で決まった通り会津・庄内藩へ討伐軍を送ることになった

勝ち目がないと見た会津藩・庄内藩からは降伏の嘆願があり、仙台藩主と米沢藩主の2人は、再度東北諸藩の重心を集めた

降伏の嘆願を出している以上、これ以上戦う必要はなかったのである

会津の謝罪状と嘆願書を受け入れた仙台藩は、その旨をまとめて総督府側へ送った

しかし、総督府はこれを却下、会津藩の謝罪は受け入れられなかった

総督府は会津藩討にこだわり、討伐の手をゆるめなかった

東北諸藩は今一度会津藩を救済する(=幕府側につく)か、総督府(薩長)側につくかの問いをつきつけられたのである

会津藩・庄内藩を討つことは、東北地方の争乱を招く

いかに総督府から討伐を命じられても、東北諸藩がそれに応じる代償は大きすぎた

総督府の指示通り従うわけにはいかないし、東北地方は自分たちで守るしかない

仙台藩・米沢藩の呼びかけで、東北諸藩による奥羽越列藩同盟が結成されたのである

総督府の会津藩・庄内藩討伐に対して、東北31藩で対抗する道が選択された

秋田藩との戦いから総督府への謝罪まで

楢山佐渡は総督府(薩長)につかず、幕府につくことを決意した

楢山の意見を聞いた盛岡藩は奥羽越列藩同盟の意思が固まった

また、楢山は同盟から脱退して総督府についた秋田藩へ問責に向かった

奥羽越列藩同盟の結成目的(総督府に抵抗すること)に立ち戻るよう要求したのである

楢山は争いを避け、話し合いでの説得を試みたが、ここで1つ悲劇が起こる

秋田藩に来ていた仙台藩士と盛岡藩士が、秋田藩士による襲撃を受けたのである

実は裏で薩摩藩が作ったシナリオだった

「夷敵をもって夷敵を制する」という言葉にあるように、

奥羽越列藩同盟を弱体化させるため、総督府はあの手この手で東北諸藩の内部分裂を起こした

幕府の威信低下を見抜いた東北諸藩の中には、奥羽越列藩同盟を脱退し、総督府に与するものが出る

同盟が崩れるのは時間の問題だった




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秋田藩内で自らの藩士が撃たれたことに激高した仙台藩は、京都より盛岡へ帰る楢山佐渡を呼び寄せ、こう語りかける

「なんとしても秋田へ軍を進め報復してほしい」

盛岡藩は、三閉伊一揆で仙台藩に大きな借りがあった

また、楢山は京都へ訪れた際に、幕府の側につく方針を固めてもいた

奥羽越列藩同盟から脱退しようとする秋田藩を止めるには今しかない、と結論づけた

秋田藩は最初は無防備だったので、大館城(おおだてじょう)を攻略することに成功するが、

秋田藩には総督府の救援が次々と到着し、最新の兵器(大砲など)を利用する官軍に苦しめられた

盛岡藩には援軍も来ず、戦局は一挙に劣勢になった

戦いが始まって40日、盛岡藩は総督府の軍に対抗できないことを痛感し楢山らに戦いを止めさせた

戦いの状況から盛岡藩は降伏せざるをえず、総督府へ謝罪と嘆願をすることが決まった

嘆願書は総督府に一度受理されたものの、後日却下された

南部藩主の南部利剛は上京し、芝(東京都港区)での謹慎処分が下された

盛岡城は総督府にあけ渡し、20万石から13万石に格下げとなる処分内容だった

楢山佐渡の最期~報恩寺で残した辞世の句~

1869年6月23日、総督府に弓を引き「天地に受け入れるべからざる大罪人」となった

総督府(新政府)に対して歯向かった首謀者・楢山佐渡が許されるはずはなかった

楢山佐渡は、刑が執行される報恩寺(盛岡市名須川町)で最期の時が近づいていた

敗戦の責任を背負い、処刑(刎首)となった楢山は辞世の句として

「花は咲く 柳は萌ゆる 春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道」

との辞世の句を残した




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岩手県に限らず、東北地方は春が遅い

6月下旬は、桜・梅など春の花がいっせいに咲く時期である

季節や時代が変わっても、決して武士道の信念を変えなかった楢山佐渡

そんな楢山の処刑は、武士の世の処刑を意味するものでもあった

(寄稿) とら蔵(とらぞう)

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