秋山好古校長先生「生徒に酪農振興」を説く~元帥の座を棄て地方中学校校長になった偉大な教育者

 筆者が書かせて頂いている記事をお読み下さっている読者様の中には、自分が歴史小説家の司馬遼太郎先生を強く尊敬しているのをご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
 あの綺麗な白髪頭が象徴的であった司馬遼太郎先生の頭脳に蔵されていた古今東西の歴史は勿論、国内外の地理風俗や宗教など多岐に渡る見識の広さとその知識の深さに加え、読者の心を掴んで離さないほどの魅力的な執筆力によって編み出された名著は多数あります。
 司馬遼太郎先生が晩年期のライフワークとされていた一大紀行文「街道をゆく」(朝日新聞出版)、歴史小説(史伝文学)方面では、戦国期作品の代表作として「国盗り物語」「関ヶ原」「新史太閤記」(共に新潮社)があり、江戸幕末では「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」(共に文藝春秋新社)、「翔ぶが如く」や「世に棲む日日」(共に文藝春秋)。
 他には、司馬先生ご本人が最も自画自賛していた「空海の風景(中央公論社)」、中国秦帝国崩壊後(楚漢戦争期)に活躍する2大英傑を主人公に描いた大作「項羽と劉邦(新潮社)」など多数あります。
 司馬遼太郎先生の作品については賛否両論があることは確かですが、もはや他人様が何と言われようと、筆者自身は司馬遼太郎シンパを自認しています。そして、これからもこの事は変わらないでしょう。




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 日本の戦国期・江戸幕末期を双璧として、古代宗教や古代中国史というように多岐の時代背景とした多くの名作を世に送り出された司馬遼太郎先生ですが、司馬作品を愛読する読者の方々に最も高評価をされているのは、新興の近代国家・明治期日本国とその全国民が、世界列強国(特にロシア帝国)相手に躍動する姿を見事に描かれている『坂の上の雲(文藝春秋)』でしょう。
 この司馬遼太郎作品の筆頭格である長編小説『坂の上の雲』に登場する人物は、天文学的な数値である「1100人(坂の上の雲ミュージアム総館長・松本啓治さんが実証済み)」ですが、
本編の3人の主人公である秋山好古・秋山真之兄弟、正岡子規を中心に、物語上には、日本帝国の総帥である明治天皇、政界からは伊藤博文陸奥宗光桂太郎小村寿太郎、陸海軍部では大山巌・児玉源太郎・乃木希典・黒木為楨・奥保鞏、西郷従道・山本権兵衛・東郷平八郎・島村速雄・加藤友三郎、民間では子規の保護者である陸羯南(くがかつなん)というように、魅力的な人物が多く登場します。
 上記に抜粋させて頂きました政界・軍部などの登場人物たちは、筆者が惹かれ好感も抱いている面々ですが、その中でも自分が最も惹かれ尊敬もしているのが、海軍大臣として日本海軍の創設に尽力した「山本権兵衛」、そして、主人公の1人である陸軍軍人(騎兵軍人)の『秋山好古』の2名です。
 山本権兵衛と秋山好古の両人に共通する点は、「バランス良く持つ理想と合理を兼ね備えた見識力と構想力を持つ」「良き家長にして愛妻家」「福澤諭吉の信奉者」「無から近代軍隊 の創設に尽力」などが挙げられ、権兵衛は世界列強海軍戦力に比肩するほどの強力な日本海軍を創設したので「日本海軍の父」と後に称され、一方の好古も一から日本騎兵の創設に尽力し、日露戦争の本戦では、強敵・ロシア騎兵陸軍を撃退する大快挙を成し遂げたことにより「日本騎兵の父」とも言われています。
 山本権兵衛は後に、内閣総理大臣を2度(第16代と22代)歴任し、政界にも活躍の場を広げてゆくことになりますが、秋山好古は人生の大幅を陸軍軍人のみとして過ごし、陸軍の多くの要職(陸軍教育総監など)を歴任し、最高階級である陸軍大将まで昇進しています。
 陸軍大将まで昇り詰めて、そこで安穏と過ごして終わらないのが秋山好古将軍の本当の凄い点であり、あと少しで最高名誉職である「元帥陸軍大将」になれる寸前で、現役軍人から身を退き予備役なって、知人の依頼で郷里である愛媛県松山市の無名の私立中学校・北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)の校長に就任するのであります。この時、1924年(大正13年)、秋山好古65歳。
 栄達極めた大将軍が一地方の一介の教育者に大転身したという格下人事が、当時でも衝撃的であったにも関わらず、秋山好古校長先生は、その後6年の間71歳という高齢になるまで、全身全霊を以ってその職務を全うし、後進者の教育と啓蒙に尽力してゆくのです。
 先述のように秋山好古は、47年間という人生の大幅を陸軍軍人として奉職しましたが、最初から軍人を目指していたのではなく、若年期より福澤諭吉を尊崇し学問好きでもあったので、本当は教師になることを目標としていました。
青年期の秋山好古は自分の親戚の年下の子供たちに、「勉強しなさい。お互い勉強の競争をしようじゃないか」と学問の重要性をよく説いていた逸話が残っているほど、好古は学問を好み、性格も温和であった好青年であったそうです。決して、英雄豪傑な軍人肌ではなかった好古青年でした。寧ろ、好古を終生畏敬した実弟・淳五郎、秋山真之の方が、子供の頃より豪胆で腕白なガキ大将であったことは有名であります。
 教育者が夢であった秋山好古は、郷里の愛媛松山を出た後、大阪や名古屋に出て小学校の教師として子供たちの指導に当たっていましたが、郷里の先輩の勧めや実家の経済事情(実弟・真之への教育費捻出)を慮って、より待遇面が良かった陸軍士官学校の騎兵科へ転身し、陸軍軍人としてのキャリアをスタートさせることになったのです。好古が軍人生活をスタートさせたのは18歳(1877年/明治10年)の時です。
 以上のように、秋山好古自身は軍人になりたくてなったのではなく、当時の秋山家のお家事情(経済的困窮)などが原因の1つとなり、仕方なく待遇面が良かった軍人に転職したというものでしたので、晩年、陸軍軍部で大業を果たした好古が、再度、中学校の校長先生として赴任することは、既に老齢期の好古にとって、47年の長い時を経て、教育者になるという宿願が漸く叶った時だったのです。
 陸軍軍人として秋山好古の挙げた大いなる功績(騎兵の創設、日清・日露両戦役への出征、陸軍教育総監就任)は栄光に輝くものであることは疑いようもない事実ですが、好古本人が果たして、このことについて幸福と名誉を感じていたかは疑問であります。(誇りには思っていたでしょうが)
 これは筆者の勝手な推察ですが、秋山好古が自分自身の生涯で、本当に幸福と充実感を味わったのは、65歳の高齢で就任した地元・愛媛松山の北予中学校の校長として6年間勤務していた時期ではなかったでしょうか。
 先述のように、秋山好古は元々私淑する福澤諭吉に憧れて教育者になることを目指しており、諸事情により陸軍軍人の道を歩んだ人物です。更に好古は、金銭と出世や名誉に対する欲望が寡少であり、陸軍内で大将まで昇進し、遂には元帥候補にも挙げられておきながら、それを惜しみなく捨て去り、格下人事となる無名中学校の校長へ躊躇なく転身している去就を鑑みても、本来教育者を目指していたからこそ秋山好古にとっては幸福なことであったのではないでしょうか。秋山好古が教育者(校長)として幸福感と充実感を得られていたことが察せられる逸話がもう1つあります。
 秋山好古が北予中学校校長に就任していた際、好古の同郷の後輩に当たる陸軍軍人・植岡寛雄(陸軍少将)が親しい先輩である好古と会話した際、植岡は好古に対して「閣下はよく禿げましたね。どうしてそんなに禿げたのですか?」と聞いた際、好古は怒る様子もなく以下のように答えたことは有名であります。

『これか。俺が「今の地位(即ち校長職)」を得るまでの苦労は並大抵のことではなかった。その間に俺は何千回、何万回となく頭を下げてきたから、とうとうこのような頭になってしまったよ』

 上記の逸話は、同郷の親しい間柄である先輩後輩の秋山好古と植岡寛雄が明るい談話内容であることを示している一方、好古は陸軍軍人の最高階級である陸軍大将になったことを強調するのでなく、今の地位、即ち全国的には無名であった中学校校長になるために、今まで苦労した甲斐があったことを主張しているのが解ります。




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 陸軍軍人(特に日露戦争)秋山好古の魅力ある逸話が多々あることで有名ですが、北予中学校校長先生・秋山好古としての逸話や彼が生徒たちに語った珠玉な教訓も多くあります。
 例えば、校長在任期間中の6年間、秋山好古は無遅刻無欠勤を貫き、毎朝誰よりも早く学校へ出勤し校内の掃除を行い、校門で登校してくる生徒たちを出迎えていました。
 秋山好古が毎朝中学校へ出勤している姿を見掛けた当時の松山市民たちは、自分たちの時計が間違っていないか確認したという逸話が残っているほど、好古校長は品行方正と精勤な教育者として市民からも尊敬されていました。また毎年一回東京で開催されていた全国中学校校長の総会にも必ず出席しており、その席上でも前職(陸軍軍人)の経歴を鼻にかけて横柄な態度を決してとることはなく、謙虚な態度で臨んでいたそうです。
 他にも、生徒たちが快く勉学や運動に励むようにと願い、秋山好古は校舎拡張を企図し、その資金集め(市民からの募金活動)にも自ら率先して努め、北予中学校の生徒が四国地方の陸上競技大会で優勝、東京で開催される全国大会に出場するために上京する際には、好古が在京時に居住していた東京の家屋を宿舎として提供する優しい教育者としての心遣いをしています。(因みに、秋山好古は校長在任中、愛媛松山に単身赴任しており、妻の多美さんはじめとする好古の家族は引き続き東京で居住していました)
 日露戦役などで寡兵ながらも軍功を挙げる戦上手であり、軍人キャリアとしても頂点を極めながらも秋山好古は、軍事や戦争を忌避する気持ちが強かった人物であり、校長在任中、周囲の人々から「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」や「日露戦争の時の活躍を聞かせて欲しい」と言われた時、好古は「軍服は東京に置いてきた」「現在、私は教育者であって軍人ではない。だから先の大戦(日露戦)を話す必要はない」と断った逸話が有名ですが、中でも最も有名なのが、1925年(大正14年)に国家より制定された学校教練制度(軍事教練)について好古校長が対応した時のことでしょう。
 学校教練とは、全国各地の官立・公立・私立の中等・高等・師範・専門などの学校に陸軍現役将校は派遣され、それらに所属する生徒たちは、派遣将校の指導の下、軍事教練(射撃や部隊訓練)が必須科目となったことであり、秋山好古が校長を勤める北予中学校にも現役陸軍将校が派遣され、生徒たちは学校教練を受けることになります。しかし、秋山好古は『学校生徒は軍人ではない』と公言し、軍事教練も最低限に抑え、生徒たちにはいつも通りの勉強に務めさせています。
 秋山好古自身が陸軍軍人で身を立てながら(しかも陸軍大将まで昇進)、生徒たちには教練を強制せず、飽くまでも勉学修養を本分とすることを生徒たちに望んだ崇高な態度は、好古校長は、先述の通り、軍事戦争を忌避する穏やかな性格な元陸軍大将の教育者であったことを物語っています。

 元陸軍大将である教育者・秋山好古は、後の時代を担ってゆく生徒たちの見識や視野を拡げるために、修学旅行の際は、当時大日本帝国の統治下にあった韓国を旅行先として定め生徒たちに海外国の風習文化を学ぶことを勧め、また別では講演会など時あるごとに自身が培った見識や考えを生徒たちに説き、更なる奮起を促したのでした。
 秋山好古が校長を辞任する際、最後の教訓を生徒に説いた内容が、『この老齢はここを去りますが、諸君ら若者はこの老齢の屍を越えてゆけ、それが私に対する唯一の義務です』というもであったそうです。
 「少年よ、大志を抱け。この老人のように。」という有名な名言を残したウイリアム・クラーク博士に匹敵するほど心打たれる名言を秋山好古校長先生も残しています。
 
 勿論、秋山好古は他にも様々な教訓や名言を生徒たちに説いているのですが、その中でも一番特徴的かつ興味ある講演内容が、秋山好古校長、なんと酪農業を強く推奨しているのであります。(実は、かく言う筆者は元酪農業従事者であったので、尊敬している秋山好古校長先生が酪農業推奨講演をしていたことが、わかった時は嬉しかったです)

 秋山好古は学校の夏休み期間などを利用して、友人が北海道で経営している牧場に滞在し、牧場の仕事に携わっています。この経験により、当時の日本国内の人口が増加する実情と照らし合わせて、今後の日本は農業・畜産の向上が何より大切だという事を悟り、さる講演会で生徒達に対して自分の考えを説くのでした。この事を好古の生涯を記した『陸軍大将・秋山好古伝』で以下のように記しています。

「将軍(秋山好古)は、校長として生徒に対し、学期の始業式或いは終業式に於いてはいつも自ら訓話をなしたが、その中で特に記すべきことは、『我国の産業、就中農業、牧畜業を重視し、我国の社会問題中の難問題たる人口問題、食糧問題等を解く鍵は、正に此所(農業・牧畜)にありと考へ、生徒に対し熱心に農業、牧畜等を鼓吹した』のである。」

秋山好古校長が生徒に鼓吹したその内容記録が残っています。それが以下の通りです。

『皆さんが歴史を見てわかる様に、デンマークは、ヨーロッパにおける最も古い国ですが、周囲の強国と戦争を行い、5、60年前、殆ど我が北海道の半分位の国土面積しかない小国になってしまいました。国内には荒れ地が多く、農産物は、ロシア・米国の穀物に圧倒されて、国民は餓死するより他にないという状況になってしまいましたが、愛国心に溢れる人材が、盛んに農業を改良し、販売・購買の極めて完全なる組合制度を設け、この50年間に比較的世界に於ける、最も幸福な国民になりました。』
 『今日、デンマーク人の一戸では、平均、馬2頭、牛3・4頭、豚5・6頭、鶏30羽くらい飼育しており、農産物の他、牛乳・チーズ・ハムなどを盛んに国外へ輸出し、一戸平均生活費を除き、約3千円(当時)以上の金額を輸出して、農業国民として世界の模範になっています。』

(以上は「陸軍大将・秋山好古伝」文中より)

好古は欧米の農業大国・デンマークを例に挙げ、同国の国土や農業生産力を抽象的に説明するのではなく、的確な数値を用いて、解り易く説明しています。好古は軍人時代にフランスに騎兵を学ぶために長期間留学をしており、ヨーロッパの地理や情勢に詳しかったですが、これ程、数値を事細かく数値を用いて、農業大国・デンマークを説明したという事は、普段から農業・畜産に強い関心を示し、世界各国の農業を勉強していた証拠です。
 好古の講演は未だ続き、今度は北海道の人口増加、農業・牧畜の発展に着目し、これからも更に同地の牧畜業が発展してゆく事を述べており、そして正鵠を射た合理的内容となっています。

「私は、今年も例によって北海道に赴き、牧畜・農業に従事してきましたが、北海道は年々発展しており、殆ど人口も300万人以上になり、米も300万石(約54万トン)を産するまでに至りました。将来、その人口は1千万人以上になり、米も1千万石以上を生産するでしょう。(中略)私が従事してきた牧畜業は、年々発達し、牛馬羊豚の動物も非常な発育をなし、国内の牧畜は、北海道が最高位に達する状態です。『例えば牛乳は、1合当たり1銭5厘ですが、都会に於いては5銭または10銭になります。故に牛乳を原料とするバター・チーズ・コンデンスミルク(煉乳)などは、将来北海道にて多く生産されるようになるでしょう。』もし将来北海道がデンマークの様に発達したならば、数十億の輸出を成し得るであろうと推察します。」

 以上、秋山好古が校長として生徒達に、今後の日本に農業・牧畜(畜産)が如何に重要になってくるかを力説した内容でした。北海道の現状や牧畜業の発展、そして何よりも素晴らしいのは、当時の牛乳の単価などを熟知しており、それを皆に説明している所です。北海道で牧畜に従事していた時にでも入念に調べていたのです。
 また別の機会では、愛媛県西条市にある河川(賀茂川)の改修工事が行われ、その記念碑の揮毫依頼を受けた好古は、記念碑完成式典で講演を行い、その時も最新の農法や各国の農牧業事情などを説いて延々2時間に及んだと伝えられています。

 何度も申し上げておりますが、秋山好古校長、元は陸軍軍人であり農業学者や経済学者ではありません。しかしながら、好古は自身の酪農牧畜業の経験を踏まえた上、今後の日本の人口増加などの社会情勢、遂には生乳の取引額といった経済事項まで細かく熟知しているのであります。
 秋山好古が、輝かしい陸軍大将から一地方の校長先生に転身するという異例中の異例の格下人事の体現者となったことでさえ世間を瞠目させたにも関わらず、好古は若年期よりの信念である「勤勉」「精神修養」「学問」を校長先生になった後も怠ることなく、当時の大正期・昭和初期日本の社会情勢、北海道の開拓有望性、遂には当時の都会の生乳単価という生活物価まで熟知しているという博識ぶりを北予中学校の生徒諸君に説いているのであります。
 秋山好古が北予中学校の校長を勤めていた「大正末期から昭和初期(1920年代後半~1930年代)」というのは、俗に暗黒の木曜日と呼ばれる「ウォール街大暴落」が発端となり発生した世界大恐慌、日本での昭和恐慌により、国内は厳しい不況に陥り、国民の間には不安が高まっている一方、かつて好古が在籍していた陸軍軍部(参謀本部)が不況脱出の糸口として、中国大陸、特に遼東半島をはじめとする満洲地方へ食指を延ばし始めようとする対外的にも緊迫状態でした。
 このような不安情勢の中、秋山好古は飽くまでも1人の教育者として、生徒ら後世の担い手たちには、対外戦略で国を富ませるという軍部の虚勢と非現実的な対外戦略を強く戒め、寧ろ諸外国との協調路線を説き、国内経済は酪農など諸産業で再興してゆくという温和的な市場自由主義(オールドリベラル)を強調したのでした。
 自身は陸軍軍人として日清・日露戦役で大戦功を挙げて、最終的に最高位を極めながらも秋山好古校長先生は、生徒たちには軍事を強請するのではなく、「生徒諸君は産業振興の担い手となって日本国を活かせ」と説いたのです。
 これほど自ら挙げた大功や実績をひた隠しに隠し、温和な国内振興を説いた陸軍軍人出身の偉人(校長先生)はいたでしょうか。秋山好古だけかもしれません。
 陸軍軍人・秋山好古としても、無の状態から日本騎兵を創設や対外戦役などでの勝利に貢献というように栄光溢れる経歴がある一方で、戦役中は水筒に酒を入れ、それを飲んで将兵の指揮ばかりいた、風呂に滅多に入らなかった、など硬軟の逸話が数多くあり、軍人としても魅力的な偉人でしたが、秋山好古の真の魅力が最もの光彩を放ったのは、晩年期に好古本人の念願が叶った教育者(校長先生)時代だったのではないでしょうか。
 軍事や諍いを厭い、次代を担う生徒たちに勤勉、産業の充実を幾度となく説いた秋山好古校長先生の教育者としての姿は、好古が終生私淑していた明治初期の啓蒙家・福澤諭吉を彷彿させられます。秋山好古の心の師であった福澤諭吉も自由平等・一身独立を明治国民に強調したことは有名であります。

 秋山好古は1930年(昭和6年)4月9日、高齢と病気(糖尿病の悪化による壊疽)を理由に北予中学校の校長を辞任、その僅か7ヶ月後の同年11月10、東京の陸軍軍医学校にて死去します。享年72歳。死因は、若年の頃より愛飲していた酒による糖尿病による壊疽でした。
 死ぬ直前、昏睡状態の秋山好古が日露戦争で激戦を繰り広げた地名「鉄嶺はまだか」「奉天へ」とうわごとで囁いたことは有名ですが、その以前に北予中学校の校長の後任者に対して、『何事もなく校長職を引き継いでくれたということを知り、大安心しています』という手紙を書き送っており、校長職も辞任した後も北予中学校について気に掛けていた素晴らしい教育者であったのです。




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 酪農産業を推奨した元陸軍軍人の教育者・秋山好古。この事は、司馬遼太郎先生の名著『坂の上の雲』には書かれていませんでしたので、今回はここで書かせて頂きました。

(寄稿)鶏肋太郎

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