以前から学説や歴史小説などによって、江戸期日本は、諸外国との交流を制限する鎖国体制下でありながらも、独自の教育・文化の発展、オランダ学(蘭学)の普及や海運業の経済流通システムの確立によって、当時の日本国民(即ち士農工商)の民度およびリテラシー(識字率)は高い水準を保ち、その事が江戸幕末期の混沌を経て、明治維新の近代国家・日本の成立の大きな一助となった、ということは唱えられていることであります。
僭越ながらも筆者も上記の説には大いに賛成する1人でありますが、その江戸期という200年以上の熟成によって形成された「日本独自の教育文化という肥沃な土壌」と、江戸中期頃(19世紀初頭)から普及した「蘭学(西洋知識)」という新奇な種を播種して誕生したのが、それまで江戸期の人々が見たこともなかった和洋折衷の新奇植物「明治維新における近代期」、と言うべきでしょう。
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上の説を続けさせて頂くと、「土壌」を掘り起し、「種」を地に植える重労働期が江戸幕末であり、その苦労(生みの苦しみ)が多い作業を担ったのが、徳川慶喜・坂本龍馬・西郷隆盛・高杉晋作など所謂、力強い幕末のカリスマたちであります。そして、その偉人たちが重労働の中で過労死あるいは隠退し、去った前後に「新奇な植物」が芽を出して、それに灌水・基肥・除草という面倒な細かい作業、即ち近代国家システムの構築を行って、芽を植物へと育てたのが、(前掲の偉人たちよりカリスマ性は欠けますが)、大久保利通・伊藤博文・大隈重信といった堅実地道を旨とする官僚的気分を多量に持った政治家たちであります。
伊藤博文のような堅実な政治家によって育った細小ながらも新奇植物を、より大きく養殖するために、新種の肥料(欧米の新技術や思想)を加える『追肥作業』を行うと同時に、作業が出来る人材をも育成しなくてはいけません。その作業と育成で一役買ったのが、江戸明治期に海外で見聞を広めた経験を持つ明治初期に活躍した、所謂『啓蒙家たち』であります。有名な福沢諭吉、渋沢栄一(即ち新旧1万円紙幣の顔)、「西国立志伝」の著者・中村正直(敬宇)、「武士道」の著者・新渡戸稲造たちは、その好例的偉人であることは間違いないのですが、今記事では、福沢と並んで明治日本の巨大な頭脳的役割を果たした『西周(にしあまね)、1829~1897)』について、皆様と一緒に追っていきたいと思います。
因みに、植物の養殖(培養)や耕作を、英語では「cultivate(kʌltʌˌveɪt)」と言いますが、この言葉は「修養する/洗練する」という別の意味も含まれています。そういう意味では、福沢諭吉や今作の主人公・西周たちは、正しく新奇植物に追肥して育てた素晴らしき『cultivators(耕作者/養成者たち)』であります。
西周は、江戸幕末~明治期にかけて、特に西洋哲学の分野で活躍したことで周知されており、また現在でも我々が日常会話で使っている日本語を翻訳創出した当代切っての智嚢の1人であることも見逃すことができません。その一部を下記に挙げさせて頂くと・・・、
『技術』『芸術』『科学』『知識』『意識』『概念』『理想』『義務』『定義』『帰納』『肯定』『分解』、そして『哲学』、等々。
如何です?筆者が尊敬する司馬遼太郎先生も生前、坂本龍馬関連の講演会の際に、『私たちが日頃、小説や文章を書けるのは西周のお陰であります。』と仰っておられましたが、これは褒め過ぎではなく、西周が翻訳あるいは創出した上掲の日本語(熟語)は、何れも我々が何気なく喋っているばかりではありませんか。
以前の記事にて、西周の大先輩に当たる江戸後期の医師・杉田玄白と前野良沢らが、蘭方医学書を翻訳出版した「解体新書」について紹介させて頂きました。彼らもそれまで無かった訳語である「神経」や「軟骨」「動脈」など現在でも通用する熟語を産み出しましたが、西周が創出した翻訳言語の数はそれ以上であります。
西周が活動していた江戸幕末期は、攘夷派と開国派の対立、大砲や小銃、軍艦など最新兵器の伝来によって日本国内情勢が混沌としていた事と同じく、言語分野でも、母国語である日本語(漢字)、江戸期で限定的に受け入れられていた唯一の外来語の蘭語に加え、英米語・仏語・露語・独語など、人々にとって極めて理解不能な様々な外来語が、一挙に流れ込んで来たために混乱を来たしており、中央政府たる江戸幕府や諸藩、在野の有識者たちは、先ず英語などの語学習得が急務となりました。彼ら西洋人が操る意味不明な言語を理解しなければ、最新技術の習得が困難になるばかりか、最も重要な政治・外交・経済・軍事で不利益を被ってしまうからであります。
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そこで、江戸幕府や西国雄藩(明治新政府)から脚光を浴びるようになったのが、信濃松代の佐久間象山、肥後熊本の横井小楠、そして西周や福沢諭吉といった江戸幕末~明治初期かけて活躍した漢学と外来語に通暁する偉才の人物たちでした。
その中でも、西周の活動は多岐に亘っており、江戸幕末では徳川慶喜の『政治外交顧問』、次いで徳川氏開設の兵学校『沼津兵学校校長』、明治期になると、新政府に請われて兵部省(後の陸軍省)や文部省の『官僚』を歴任し、「軍人勅諭」の草稿に携わると同時に、『哲学者』として西洋哲学の研究に邁進。また『啓蒙家』として森有礼・福沢諭吉ら有志たちと明六社を立ち上げ、学術総合雑誌「明六雑誌」を刊行し、近代日本に大きな影響を与え、晩年には獨逸学協会学校(現在の学校法人獨協学園)の初代校長を短期間ながらも務めています。
政治・教育・翻訳・研究など多岐に亘って活躍した西周は、正しく万能人と言えるのですが、石井雅巳先生(西周と同じく島根県津和野のご出身)の著書『西周と「哲学」の誕生』(堀之内出版)では、周のことを『百面相的な人物であったと言える』と書かれています。『百面相』、筆者の譬えである万能人よりもユニークに富んだ譬え方で素敵です。その百面相的な人物の西周はどのようにして歴史上に誕生したのか、辿ってみたいと思います。
西周は、石見国津和野藩(外様大名・亀井氏4万3千石、現:島根県鹿足郡津和野町)の典医(外科医 100石)・西時義の長男として、1829(文政12)年に誕生しています。幼名は経太郎(みちたろう)、通称:周助(修助/修亮)。因みに、明治期の陸軍軍医にして、文豪としても名高い森鷗外(通称:林太郎 1862~1922)も、津和野藩に仕える藩医・森静男の長男として誕生していますが、西周の父・時義(旧名・森時義)は、実は鴎外の曽祖父の息子であり、同じく藩医の家柄である西家に養子に入っています。拠って、家系図上では、西周と森鷗外は親戚関係にありました。(鴎外の父や祖父は他家から森家の養子となっているので、周と鴎外は血の繋がりはありません)
西周は、4歳の頃より祖父・西時雍(ときやす)から漢学(四書五経)の手解きを受けると同時に、実家の土蔵に1人籠って勉学修養に励むほどの秀才ぶりを発揮。周12歳の折、津和野藩の藩校・養老館(1786年、8代藩主・亀井矩賢により創設)に入学し、朱子学を本格的に学び始めます。
明治期には、国宝級の智嚢を有し、政治・哲学・啓蒙など多種多様の分野で縦横無尽に活動する西周でありますが、その基礎は20歳まで育った山陰の小規模城下町であった津和野での漢学や儒教の猛勉強によって構築されたのです。その証左として、島根県公式の同県PR情報雑誌『シマネスク』(第18号)内の人物歴史物語の項で、西周について紹介していますが、その文中で、『西周の油買いと米つき』という逸話についてあります。下文は、その一部を抜粋させて頂きます。
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『「西家には困ったあほうが生まれたものだ」津和野の人々はこうささやきあったという。世に「西周の油買いと米つき」と評判されるほど、周の勉強は度はずれて猛烈なもので、一般の人の目には、変人のように映ったのである。油買いに行く時は、油徳利をぶらさげ、書物を読みながら歩いた。しかも、片足は下駄、もう一方は木履ぼくりという変な格好でも、いっこう平気だった。米をつかせると、書物を読みふけるので、気が付いたときには粉米になっていたという。少年時代のこの猛勉強が、後年の大学者西周を生むのである。』
(以上、シマネスク18号「人物歴史物語」文中より)
上記のように、西周少年の猛勉強ぶりを伝えるエピソードであります。後年に周が漢学(儒教)と蘭語(西洋語学)を学ぶ姿勢や集中力、或いは勉学方法は、家の用事を行いつつも寸暇を惜しんで勉強した時に培われたのでしょう。因みに西周の後輩の1人で、明治期の碩学者にして『日本林業の父』と称せられる『本多静六(1866~1952、現在の埼玉県久喜市出身。この人物についても何れは紹介してみたいと思っています)』という人物がいます。
本多静六は、東京の日比谷公園や明治神宮の森を設計に関わった当時随一の林業博士でありますが、彼も少年期は、西周少年と同じく米をつきながら読書に勤しみ、遂には米が粉々になるまで搗いた時もあったそうです。晩年、静六翁は上記の回顧談として、『読書で勉強ができる上に、しっかりと米搗きが出来ているので、家族や近所の人々から「米搗きは静六に限る」と称賛されたのです。拠って、考え方1つで、勉強する方法はいくらでも編み出せるのです。』と諭しています。
明治期に西周と共に、明治国民の啓蒙目的で明六社を立ち上げるメンバーの1人・福沢諭吉もやはり、『学問のすすめ』の中で、『粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながらもできるものなり。』(第10編)、と米を搗きながらも勉強をできるものである!と断言しています。邪推すると、福沢諭吉の同志である西周から、「自分は少年の頃は、米を搗きながら勉強したよ」と周自身の思い出話を直接聞いて、『学問のすすめ』文中の「米搗き学問」は西周ことを例にとっているのかもしれません。
筆者如きの邪推は兎も角、古今東西を問わず、西周といった偉大な碩学者には、上記のような幼少期における猛勉強エピソードがあるものなのですね。
津和野藩校・養老館に入校で頭角を著し始めた西周は、20歳(1849年)の折、時の藩主・亀井茲監(これみ)よりその秀才ぶり称賛され、家業の藩医業を継がず、勉学を極めるように命じられます。これを一代還俗と言いますが、幕府お抱えの奥医師や藩医といった位高い医師は剃髪(丸坊主)姿であり、藩医の家柄出身の西周も当初は剃髪していたのです。髪を蓄えて還俗した西周は、より勉学、特に朱子学に励むようになり、養老館でも教授に就任し、他の藩士子弟に教育を施すことになります。
20代前半の西周は津和野藩から許可をもらい、大坂の頼山陽門下の後藤機松蔭の塾をはじめ備前岡山藩の藩校・岡山学校に数年間遊学して、朱子学の修養に務めていましたが、反朱子学思想を持つ荻生徂徠学についても独自で学び、その教えに感銘を受けたと言われています。
荻生徂徠学は、「学びを実践に生かす」という実学思想を強調しているのがその学問の特徴ですが、筆者が以前紹介させて頂きました江戸幕末の紀州藩出身の偉人・津田出(藩政および軍制改革の立役者)は、その徂徠学の学徒で、実学を体現するかのように不退転の姿勢で紀州藩内の大改革を成功させましたが、西周も後年多岐に渡る旺盛な活動を鑑みると、彼も実学を旨とする徂徠学に大きな影響を受けていたと、思われます。
何れにしても、朱子学を本格的に学び且つ藩士子弟にそれを教えながらも、その反対学派である荻生徂徠学にも関心を寄せるという柔軟な思考および強い向学心を持っていた西周は、やはり並々ならぬ学者であったことを窺わせるのですが、その儒教と漢学という東洋学問の習得に邁進してきた周に、一大転機が到来します。有名な「ペリー来航(1853年)」であります。西周、この時24歳の青年でした。
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アメリカ合衆国の提督M・ペリーが黒船を率いて三浦半島の浦賀に来航して以来、江戸幕府をはじめ諸藩は、最先端の西洋技術や知識を得るために、その関連の情報収集や在野の蘭学者の登用、藩士子弟に蘭学の教育により力を注ぐことになることは周知の事でありますが、西周が仕える山陰の山間の小藩・津和野藩も例外ではなく、ペリーが来航した同年(1853年)に、藩は情勢調査のために西周を始めとする数人の藩士を江戸へ差遣しました。そこで、黒船を通じて米国、ひいては西洋諸国の技術文明に刮目させられた西周は、蘭学と洋学を習得することを強く決意します。その決意ぶりは必死そのものと言うべきであり、何と翌年の1854年には、江戸で洋学を習得するために「脱藩/出奔」をしたのであります。藩士の脱藩は最大犯罪であり、脱藩者は、最悪の場合、藩命により追手を差向けられ斬り殺される場合もあるばかりでなく、親類縁者にも厳しい責任追及を受けることもあるので、脱藩する者は必死覚悟で断行することが問われるのですが、学問習得のために自身の生命や家族たちの命運までも賭して脱藩した西周は、最早、実学者という域を脱しており、「烈士学者」というべきでしょう。
有名な土佐藩の坂本龍馬、今年のNHK大河ドラマの主人公でお馴染みの渋沢栄一、桜田門外の変で大老・井伊直弼の暗殺を主導した関鉄之助といった水戸藩士は、其々の政治思想や理念に基づいて脱藩した人々です。
龍馬たちのような理由で所属藩や村落を脱退するという事例は、江戸幕末には多々ありますが、西周のように、洋学習得のために脱藩を断行した例は稀と言ってもいいのではないでしょうか。尤も、西周が脱藩した津和野藩では、藩内随一の碩学者である彼に同情する藩士が多くいたらしく、同藩家老(首席家老で、渡辺崋山と交流があった「多胡丹波」か?)もその内1人であり、周は脱藩者という重罪人ではなく、「暇乞い」という藩了承の退職者として扱われることになりました。このように陰ながら西周を扶けた人々が存在した事も、後世の天才が出現することができた大きな要因となっているのであります。
津和野藩を退転した西周は、江戸に出て蘭学を杉田成卿(すぎたせいけい、杉田玄白の曾孫)や池田多仲らに就いて学ぶ傍ら、当時、福沢諭吉といった多くの見識者も学び始めていた英学/英語の勉学にも励み、それは手塚律蔵・中浜万次郎から学びました。
先述のように、1853年のペリー来航以来、江戸幕府は西洋事情やその技術に通暁している人材を官民問わず各地から招聘することに熱心になり、それを受け入れる洋学研究機関として『蕃書調所(後の開成所、明治期には東京大学の前身校の1つとなる)』を1856年に創設しました。同所の任務として、洋書翻訳・出版・西洋技術の研究や伝習などがありましたが、その教授手伝並(助教授)として、西周が採用されました。
西周が蕃書調所の助教として採用されたのは、開所同年の1856年であり、江戸幕府も、一介の浪人身分ながらも儒学に大いに通じている上、洋学研究にも邁進している周の存在を知っていたことになります。3年前のペリー来航以来、政治外交における対応の拙さが原因で、京都朝廷や世間の尊王攘夷派から反感を買い、権威の衰退ぶりが顕れてきた幕府ではありますが、当時無名であった一在野学者の西周を探し当てて、ヘッドハンティングにしているのであります。やはり当時の中央政府たる江戸幕府は、只々無為徒食のように過ごしていたのではなく、後手ながらも洋学に通じている人材を活かし、洋学や西洋諸国の研究に務めているのであります。
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因みに西周以外に、蕃書調所で勤務することになる人物を挙げさせて頂くと、初代頭取には、儒学者ながらも洋学に通暁していた開明的な学者「古賀謹一郎」が就任し、教授には、当時から蘭学者として高名であった「箕作阮甫(みつくりげんぽ、美作津山藩の蘭方医)」を採用。古賀・箕作を補佐する教授手伝並として、周の英学の師・「手塚律蔵」、薩摩藩の藩医であった「松木弘安(後の寺島宗則)」、そして、周防の村医者である村田蔵六(大村益次郎)、明治期に周と共に明六社を立ち上げる美作津山藩の「津田真一郎(真道)」、幕府同心の家に生まれた「中村正直(敬宇)」ら採用され、正しく全国各地から洋学に通じている逸材を採り、蕃書調所へ入れ込んだ形になりました。
西周は、上記の人物たちと互いに切磋琢磨していくことになったのですが、後に明六社の主要メンバーとなる津田真一郎や中村正直など出会いは、周にとって大きな影響を受けたのではないでしょうか。周は、蕃書調所に7年間勤めて、洋学研究や翻訳作業に携わり、(彼が望んだ如く)、洋学に研鑽を積んでいくのですが、1862年に幕府から大命が周に降ります。それは『オランダに留学せよ』というものでした。西周、この時、33歳でした。
西周は、所謂『幕末オランダ留学生(文久年間和蘭留学生)』として、江戸幕府から選抜された俊英の1人となったのですが、周以外で留学生として選ばれた人物は、以下の通りです。
・周の同僚「津田真一郎(真道。明治期の啓蒙家。明六社の主要メンバーの1人)」
・幕府奥医師の林洞海の子「林研海(後の陸軍軍医総監、順天堂の創始者・佐藤泰然の外孫)」
・御家人の榎本武規の次子「榎本釜次郎(武揚。後に蝦夷共和国総裁、明治期には海軍卿、外務大臣など要職を歴任)」
・幕臣「澤太郎左衛門(後に、蝦夷共和国開拓奉行。海軍軍人、黒色火薬製造に貢献)」
・御家人「赤松大三郎(則良。後に海軍軍人、造船業に貢献。「日本造船の父」と称せられる)」
・幕臣旗本「内田恒次郎(正雄。幕末和蘭留学生のリーダー格。明治初期の大ベストセラーの1つに数えられる世界地理書「輿地誌略」の作者)」
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以上を含めその他の15人が主だった幕末オランダ留学生でありますが、西周や津田真道、榎本武揚、内田正雄など数年後の明治の文明開化期に活躍する若き精鋭であります。留学生たちは1863年には日本を出港し、(当初、海難事故などに遭う出来事がありましたが)、当時オランダ領であったインドネシアのバタヴィア(現在のジャカルタ)を経て、翌年の1864年にはオランダ本国に到着しています。
因みに、国立国会図書館が運営管理するサイト『江戸時代の日蘭交流』(https://www.ndl.go.jp/nichiran/index.html)というのがありますが、その中に幕末オランダ留学生の紹介ページがあり、西周をはじめとするオランダ留学生が滞在1年後(1865年)当時の写真が掲載されています。
その写真に写っている榎本武揚、津田真道、そして西周ら9人の留学生たちは皆、髷を切り落とした散切り頭で、見事な洋装姿であります。周は白ズボン姿で両手を組み、右前端で椅子に腰を掛けている状態で写っていますが、その彼の髪型は、何となく偉大なドイツ人音楽家・ルードヴィッヒ・ベートーヴェン(当時は既に故人)に似ているようにも見えます。
幕臣の勝海舟・小栗上野介、長州藩の伊藤博文(俊輔)・井上馨(聞多)、薩摩藩の五代友厚(才助)、豊前中津藩の福沢諭吉、そして渋沢栄一らは皆、大海原を超えて自身で外国へ赴き見識を深めて、後々の近代国家の基礎創りに貢献した人々でありますが、西周ら幕末オランダ留学生たちも同様である上、周の留学期間と深めた勉学の質量は、海舟や博文たちとは比較にならないほど、巨大なものでした。
西周と津田真一郎は、オランダ最古の名門国立大学・ライデン大学(レイデン大学とも。1575年に創設)にて、同大学の経済学教授・シモン・フィッセリング(Simon Vissering 1818~1888)に師事して、『自然法』『国際公法』『国法学』『経済学』『統計学』の五科を学んでいます。
因みに、万国公法に精通していた坂本龍馬が友人の志士に対して、「これからは万国公法(国際公法)が重要ぜよ」と語ったという逸話があります。
「万国公法(原題:Elements of International Law、原著:米国法律家ヘンリー・ホイートン、漢訳:米国人宣教師ウィリアム・マーチン)」は、江戸幕末~明治にかけて多くの有識者のドグマ(教典)ように愛読されましたが、その西周も、万国公法の出版をオランダから帰国後に行っており、「翻刻版(開成所版/畢洒林氏万国公法)、1866年刊」は、留学生・西周の師であるフィッセリング教授の口語を、周が執筆したものであります。坂本龍馬が西周の記した万国公法を読んだかは不明でありますが、周は哲学だけでなく国際公法の普及にも尽力しているのであります。
ライデン大学にて、法学や経済学など五科の学問研鑽に邁進していた西周ですが、彼のライフワークとなる『西洋哲学』を知ったのも、このオランダ留学期間中のことでした。特に、仏国人哲学者のオーギュスト・コント(1798~1857)が提唱する『実証哲学』、英国人哲学者のジョン・ミル(1806~1873)の政治哲学と経済思想に共鳴したと言われています。
実証哲学や政治哲学という深淵のような理を紹介するほどの知識と文章力、そして何よりも哲学に対して知的好奇心を左程持ち合わせていない筆者如きの輩(哲人皇帝マルクス・アウレリウスの名著「自省録」ですら挫折しました)では、今記事で書くことは不可能であります。しかしながら、今記事の冒頭付近に紹介させて頂いた通り『哲学』というのは西周が創った日本語ですが、この哲学という我々現代人が良く知る言葉の誕生経緯ぐらいは、筆者でも紹介できそうであります。
筆者にも紹介できそう、と偉そうにも書いてしまいましたが、前掲の石井雅巳先生の著作『西周と「哲学」の誕生』やネット百科事典のコトバンクを大いに参照させて頂きたいと思っております。
哲学は英語では『philosophy(フィロソフィー)』と言いますが、西洋哲学の誕生の地であるギリシャ言語の『philosophia(フィロソフィア、「知恵を愛する」という意味)』に由来しております。西周は、中国北宋王朝の儒学者・周敦頤(濂渓/れんけい、とも。1017~1073)が著した書物『通書』(志学篇)のある一文を出典とします。
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即ち『士希賢(士は賢をこいねがう)』という一文であり、これから西周は、『賢哲の明智を愛し希求する』という意を加味、更に『「哲」智すなわち明らかな智を「希求」する「学」』という境地に至り、『希哲学』という訳語を創出したのであります。そして、後にこいねがうの意味を持つ希の頭文字は削られ、哲学という言葉が明治政府(文部省)に採用され、現在に至るということであります。
西周の大先輩に当たる杉田玄白や前野良沢らが、西洋医学書「ターヘルアナトミア」を、苦心の末に翻訳を行い『解体新書』を上梓しましたが、彼らは、本業である東洋医学(漢方医学)用語にある「神気経脈」から、「神経」という言葉を創出したことは有名でありますが、周の場合は、少年期~青年期かけて粉骨砕身の如く修養した朱子学(儒教)の知識を糧と成し、上記の『哲学』という訳語を創出したのであります。
哲学以外にも、『知識』『科学』といった現代にも馴染みがある言語も、明治期において西周の訳語から誕生したことは先述の通りでありますが、これら多くの言語(近現代日本語)を編み出すことが出来るほどの明治期日本の偉大なる頭脳的役割を、周が果たせたのは、(杉田玄白や前野良沢らと同様に)、若年期に身に付けた朱子学(漢学と言ってもいいでしょう)が基礎にあったからであります。そして更にオランダ留学にし、西洋の法学や経済学を学ぶことで、東西洋の膨大な知識と見識を身に付けた巨大な頭脳・西周が完成した、と言うべきでしょう。
その様な偉大な博識者となった西周を世間が放っておくわけがありません。ましてや当時の日本は、江戸幕末という近代国家誕生に向けて産みの苦しみで国家全体が混沌とした時期であり、その起因となった西洋列強国の情報や技術について通暁している逸材を、幕府や雄藩が何よりも欲していたのであります。その好例の1人が、熊本藩の碩学者であった横井小楠であり、彼は越前福井藩藩主にして、幕末四賢候である松平春嶽(慶永)に招かれて、同藩の政治顧問官となっています。
正しく西周にとっても上記は適任の役どころでありますが、偉大な頭脳を有する周をいち早く抜擢したのは、後に江戸幕府15代将軍となる徳川/一橋慶喜であります。先述のように、今後、諸外国との外交折衝や海防策が大いに必要なってくる時代に、約260年続いた全国に約260藩から成る江戸幕藩体制(封建制度)では日本国家を切り盛りしてゆくとは不可能である、という事を天才的頭脳で察知した徳川慶喜は、徳川幕府を中心とした諸外国と比肩できる新国家プラン(会議制度)を創立かつ運営していくことを急務と考えました。その雛型を創案したのが西周であります。
1865年、シモン・フィッセリング教授の全講義を受け終えた西周(当時37歳)は、日本へ帰国途中で、フランス首都・パリで、森有礼(明治期の外交官、初代・文部大臣)、福地源一郎(桜痴の号で有名。明治期の名ジャーナリスト)、そして、五代才助(友厚)たちと知己を得ています。森・福地・五代の何れも明治期における智嚢人として政治・実業などで様々な業績を遺した人たちであり、特に福地・五代は、今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で重要な役どころで、主人公・渋沢栄一の協力者として登場していることは周知の通りであります。
パリで、森有礼らと会った翌年の1866年、西周は日本に帰国し、江戸幕府直参して召し抱えられ、蕃書調所改め開成所の教授職となり、その勤めの1つとして前掲のフィッセリング教授の口語訳『万国公法(開成所版)』を書き上げて、江戸幕府に納めています。またその直後だと思われますが、当時、佐幕派と勤王派の対立で紛糾極める京都で活動している徳川慶喜(当時は、禁裏御守衛総督。征夷大将軍には未就任)の政治顧問官かつ開明論者の側近として、彼を補佐する共に、西洋事情(「西洋官略考」の献上)などを教える重職にも就きました。朝廷外交や諸藩との折衝で徳川慶喜に仕えた寵臣・平岡円四郎や原市之進をはじめ財政や兵站面で辣腕を振るった渋沢栄一とは違った立場(政治顧問)で、西周は慶喜を補佐することになったのです。
今更ながらですが、このように西周について徒然のままに書いていて、漸く思い出したのですが、1998年に放送されたNHK大河ドラマ『徳川慶喜』(原作:司馬遼太郎「最後の将軍」、脚本:田向正健、主演:本木雅弘)の後半(第42回~)から、西周も本編に登場するようになり、名優・本木雅弘さんが演じる徳川慶喜に、西洋事情やその政治体制を事細に解説する一方、フランス語を教授していると思えば、慶喜に命じられ、西洋諸国の政体利点を活かしつつも、日本にも適応できる『新たな国家プラン』の草案を書き上げるといったように、政治顧問あるいは慶喜付き個人教師として活躍しています。『新たな国家プラン』、それが『議題草案』(ドラマの第43回タイトルにももちいられています)であります。因みに、この時、沈着な西周を演じられていたのが、今でもドラマや映画で大活躍されている小日向文世さんでした。
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『議題草案』、何とも厳かな題名でありますが、徳川慶喜は江戸幕府が永続することを念頭に置いて、西周に練らせた『幻の近代日本国家案』でした。
余談ですが、戦国期に、奥州の覇王・伊達政宗の財務長官として仕えた鈴木元信は、主君・政宗が天下を獲り、伊達幕府を開いた際に、その統治システムの骨組みとなる掟書(憲法)を密かに書いていましたが、徳川幕府の天下が盤石となってしまったので、元信はその掟書を焼き捨てた、という「幻の伊達政権プラン案」の逸話があります。当時の政治事情により夢幻の如く消えたという点は、徳川慶喜と西周が編み出した『議題草案』と似ていると思えます。
徳川慶喜に命じられ、西周が書き記した『議題草案』は「上」と「別紙」の2巻に分かれて書かれており、上巻は序文のような内容になっており、大まかに箇条書きで挙げさせて頂くと以下のようになります。
⓵「政治的混乱について現状」
⓶「今後は諸外国との外交折衝が増々必要になること」
⓷「⓶の対処には諸藩集って衆議を決する議会政治が必要になる」
⓸「⓷の議会政治の一例として英国の議会は上院・下院の2院あり」という海外の議会政治の紹介。
⓹議会政体を日本に採用するなら「朝廷・幕府・諸藩の三権」の在り方についてどうあるべきか?
そして最後に、⓹の草案については「別紙」に書き記してあります、と結んであります。
「参照元:国立国会図書館サイト『史料にみる日本の近代』第1章「立憲国家の始動」より)
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西周が書き記している「別紙」が、『別紙 議題草案』という題目になります。この内容については、また後の機会、即ち別記事(西周先生の言う所の「別紙」)にて紹介させて頂きたいと思います。
実は、この1回にて一挙に、江戸幕末~明治にかけて巨大な頭脳であった西周の生涯について書かせて頂くつもりでございましたが、『別紙 議題草案』の本文を読んでいますと、政治顧問・西周の深い智嚢に感嘆し過ぎまして、それについてまで書いてしまうと、更に長文となってしまい、皆様に余計にご負担をお掛けすることになりますので、次回に譲らせて頂き、その時で、明治期にも新政府の偉大な頭脳的役割を果たす周の後半生も併せて追ってみたいと思います。
(相変わらず今記事でも長文で、皆様にご迷惑をお掛けして申し訳ありません・・・)
(寄稿)鶏肋太郎
→津田出の改革とは~明治国家を先取りした紀州藩の大改革を断行した「経綸の天才」
→和魂洋才と知る欣びを旨とした江戸末期の先覚者たち
→鶏肋太郎先生による他の情報
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