濱口梧陵の解説~百世の安堵を図れ「多分野で社会貢献」幕末の実業家とその偉業

濱口梧陵とは

濱口梧陵(はまぐち-ごりょう)は、江戸時代後期の文政3年(1820年)6月15日に紀伊国に生まれた、実業家・政治家である。
梧陵は、銚子で醤油醸造業(現・ヤマサ醤油)を代々営む、濱口儀兵衛(ぎへえ)家の七代目の当主で、家業のみならず医学や防災にも尽力した人物である。
この頃まさに、政情は不安定となり、感染症の大流行や自然災害の多発などで、多くの民衆が苦しんだ。

濱口梧陵

梧陵は、この難局に志を持って立ち向かった人物であるが、知る人はあまり多くないといってよいであろう。
この人物を知ることによって、現代に生きる我々は少しでも何かを学べることが出来るはずである。

濱口梧陵と蘭方医

濱口梧陵は、醤油商人の濱口七右衛門の長男として紀州・広村(現・和歌山県広川町)で生まれたが、12歳で本家・儀兵衛家の養子となり銚子へ移る。
まだ見習いの梧陵は、江戸・銚子と広村を往復しながら見聞を広めた。
若き梧陵は、銚子でも広村でも町の有力者として、常に民衆の生活に気を配っていた。
特に人々の命を脅かした、感染症の根絶に向けての努力や情熱は、目覚ましいものがあった。
21歳の梧陵は、銚子で医院を開業していた三宅艮斎と出会い、医学の知識を得て、西洋事情も学んだ。
これによって梧陵は、従来の漢方医学の限界を痛感したのではないだろうか。



時代は蛮社の獄を経て、安政年間になると蘭方医学の優秀性を認める動きが高まり、しだいに蘭方医の立場が好転していった。
好機と捉えた蘭方医たちは、天然痘の根絶を目指し、伊東玄朴を中心とした83名の出資による種痘所を、江戸・神田に創設した。
種痘所は、半年で火災により消失するが、艮斎から依頼された梧陵は700両を寄付し再建に協力した。
後に再建された種痘所は幕府直轄となり、西洋医学所と名を改め、東京大学医学部の前身となっていった。
安政5年(1858年)に江戸でコレラが流行すると、銚子で医院を開業していた関寛斎を、費用を支援したうえで種痘所に派遣し、治療法や予防法を学ばせた。
銚子に戻った寛斎は江戸から薬を取り寄せ、徹底した隔離対策で防疫に努めた。
梧陵の迅速な対応と寛斎の努力で、銚子は感染拡大が食い止められ、多くの民衆の命が救われた。

住民百世の安堵を図れ

梧陵は、人材育成にも積極的に取り組み、同志と共に文武両道の私塾を創設し、自らも指導にあたった。
後に私塾は耐久舎と名付けられ、梧陵の教育に対する熱意は、現在の和歌山県立耐久高等学校に繋がっている。
梧陵は、34歳の頃に儀兵衛家の家督を相続するが、それから間もない嘉永7年(1854年)に紀伊半島沖を震源とする安政南海地震が発生し、津波が広村を襲った。
この時梧陵は、自家の稲むらに火をつけ、高台の広八幡神社へ誘導するための明かりとし、結果として多くの村民の命を救った。
これをもとにした物語が、現代も防災教材として評価の高い「稲むらの火」である。
津波の被害を目の当たりにした梧陵は、紀州藩に許可を得て堤防の築造を決断した。
広村堤防と呼ばれるこの堤防は、約4年をかけて築造されるが、その間に被災した村民のために家を建てたり、失職した村民に工事による仕事を与えるなど、その費用も含め梧陵が負担した。
また、復興に欠かせない道路や橋を再建したり、農地を堤防の敷地に転換することで、村民の年貢負担を大きく軽減させて離村を防ぐなど、これらの大規模な広村復興計画は梧陵が主導した。
「住民百世の安堵を図れ」という梧陵の呼びかけに、村民もよく応えた。
これを幕府や藩に頼らず、梧陵と村民とで成し遂げたのだ。
そして堤防が完成してから88年後の昭和21年(1946年)の昭和南海地震での津波が広村を襲った際には、広村堤防が多くの人々を救った。

政治家になった梧陵

梧陵は実業家の身分でありながら、慶応4年(1868年)に紀州藩・勘定奉行に任命されている。
後には藩校・学習館知事や大参事(副知事)を歴任するなど、維新後の和歌山県の発展に大きく貢献した。
明治4年(1871年)には中央政府に召され、駅逓頭(郵政大臣)に就任する。



梧陵は、郵政民営化を最初に主張した人物とされるが、それに反対する前島密との対立で半年足らずで辞職する。
その後、和歌山に帰郷した梧陵は、明治13年(1880年)に和歌山県の県会議長に就任し、初の県議会を取り仕切る。

幕末の偉人と親交があった梧陵

梧陵は31歳で勝海舟と出会い、生涯盟友として国事を語り合った。
梧陵は、貧しい生活を送りながら学問に励んでいた、まだ無名の海舟に大きな期待を寄せ、洋書の購入などの支援を積極的に行った。
海舟は梧陵との出会いから、幕臣として知識と手腕を発揮し、幕府海軍の近代化の実現や、さらには江戸城無血開城という事績を残した。
また、梧陵は49歳で福沢諭吉と出会っている。
梧陵は、学習館の改革に取り組むかたわら、共立学舎という洋学校の創設を計画し、福沢を藩に招聘して学制改革を進めようとしたが、これは梧陵たち藩士でもない者による改革に、藩士たちが反発したため成功はしなかった。
人材育成こそが国と地域を発展させる基礎である、と考える梧陵は福沢と出会い、その思いを一層強くした。

人生の集大成のアメリカ渡航

梧陵は晩年に、念願だった海外渡航を実現させる。
これまでに、艮斎や海舟などの海外事情通から得ていた知識を、最後にこの目で確認しておきたかったのであろう。
渡米後の福沢に宛てた手紙では、大統領選挙の様子やナイアガラの景観などをユーモアを交えて伝えていた。
しかし梧陵は、その翌年に体調を崩しアメリカで客死した。
梧陵の遺体は、横浜で海舟や福沢たちによって会葬され、広村へ帰った。
梧陵は、難局が次々と押し寄せる状況下で、社会的活動を通して様々な教訓を残したが、決して家業の経営を疎かにしていたわけではなかった。
その経済活動によって得られた利益を、どう活用するべきかという理念が明確にあったのだ。
さらに、広村の稲むらに火を灯し村民を導いたように、津波のような時代の荒波に一歩も怯まず、行動力で人々を先導した人物でもあった。



濱口梧陵、明治18年(1885年)4月21日、アメリカ・ニューヨークで死去、享年66歳。

(寄稿)浅原

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