折田要蔵とは
折田要蔵(おりた-ようぞう)は、幕末の武士で、1825年に生まれました。
1839年、薩摩藩の藩校「造士館」(ぞうしかん)に入学すると、頭角を現したようです。
1845年、江戸に留学すると、幕府直轄の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に入り、藤田東湖、箕作阮甫(みつくり-げんぽ)らから、西洋の兵器や蘭学を学んでいます。
1848年、ロシア船出没などもあったことから、蝦夷地や樺太まで渡って探検しています。
嘉永6年(1853年)、浦賀に黒船が来航すると、水夫や鍛冶師に扮して、ペリー提督のアメリカ蒸気船に接近し、大砲などを見分しました。
1855年、水戸藩主・徳川斉昭の招きを受けて、軍艦や海防について論じたともあり、特に砲台のスペシャリストになっていたようです。
ただし、内容は伝わっていませんが、謀略を計画していたことから、江戸町奉行に捕らえられ、薩摩に送還されています。
1863年、薩英戦争の際には、薩摩藩の摂海防禦御台場築造御用掛に任命され、砲台の建造と大砲製造を主導しました。
そして、島津久光の上京に従うと、1864年には、摂津沖の湾岸防備の設計書を、島津久光に提出しています。
第15回より登場
<#青天を衝け 登場人物>
昌平黌で蘭学を学び、兵学に通じる。迫りくる異国の脅威に備え大阪湾に砲台を築造するため、幕府から御台場築造掛に抜擢された。栄一はその人となりを探るという命を受け、大坂にある折田の塾へ潜入捜査することになる。 pic.twitter.com/kTRjtbDbbI
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この頃、一橋慶喜が、「摂海防禦」(せっかいぼうぎょ)の指揮を執っていますが、砲台の築城に詳しい折田要蔵が抜擢され、江戸幕府から14箇所・大砲810門の台場造営を命じられると、100人扶持となりました。
砲台築城御用掛(ごようがかり)として、大坂湾の安治川口、天保山、木津川口などに砲台を築こうとしています。
なお、平岡円四郎の仲介で、一橋家の家臣になっていた渋沢栄一は、折田要蔵、大久保利通、西郷隆盛ら薩摩藩士を信用できなかったようです。
忠告を受けた平岡円四郎も、折田要蔵を深く信頼していなかったようで、渋沢栄一が築城修業のための内弟子になると言う事で、薩摩藩の内情を探ることになりました。
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こうして、渋沢栄一は大坂にて、約1ヵ月間、土佐堀にあった薩摩藩の下宿すると、砲台の絵図や書類を製作しています。
ただし、下宿先に来る薩摩藩士は少なく、折田要蔵は、薩摩藩の中でも、少し、浮いている存在だったことが伺えます。
実際に、西郷隆盛は、幕府の命を受けて、旗本同然になった、折田要蔵を嫌っていたようです。
島津久光への建言は、よくあり、例えば、楠木正成ら南朝の忠臣らを顕彰するため、湊川の戦いの跡地に、英霊を祀ることなどを上奏しています。
1867年、大政奉還となり、長州が軍勢を京に向けると、折田要蔵は、山陰道鎮撫総督参謀書記となって山陰道を進んでいます。
途中、生野代官所の攻防では、総督・西園寺公望から代官所の占領を命じられ、鉄砲隊を使って、一揆への対応も行うと、なんとか鎮圧しています。
そして、生野県(いくのけん)の府中裁判所が設置されると、折田要蔵が判事に就任しました。
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ただ、前述のとおり、薩摩藩士にしては、要職にはついておらず、明治3年(1870年)に辞任すると、三国屋要七と名前を変えて、京都で武器商人となりました。
その後、明治6年(1873年)かねてから、希望を出していた、湊川神社の初代宮司になっています。
明治10年(1877年)廣田神社宮司への転任を命じられていますが、拒否して、引き続き湊川神社宮司を務めました。
明治30年(1897年)湊川菊水文庫の官舎にて死去。享年73。
2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、折田要蔵を、徳井優さんが、演じられます。
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