美賀君【一条美賀子】の解説~徳川慶喜の正室になった公家の女性

美賀君(一条美賀子)とは

一条美賀子(いちじょう-みかこ)は、江戸時代後期の天保6年(1835年)7月19日に、今出川公久の娘として生まれました。
幼名は延君(のぶきみ)で、母は鷹司致子となります。
一条美賀子の写真(出典:東京都港区立郷土資料館蔵)が残っております。

美賀君(一条美賀子)

美女とされる、現代の女優さんでも、写真写りが良くない方も、おられますが、幕末女性で、写真が残されているうちでは、最も美しい女性のひとりとも言われています。

2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、美賀君(みかぎみ)として女優の川栄李奈さんが演じられます。
父・今出川公久(いまでがわ-きんひさ)は、正二位・権中納言と位の高い公卿でしたが、病になったようで、美賀君(一条美賀子)が生まれた翌年に亡くなりました。(享年31)




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将軍家に嫁ぐ

1853年、徳川慶喜(一橋慶喜)との婚約が成立し、安政の大地震のあと、1855年12月3日に結婚し、武家の妻となりました。
当初、徳川慶喜は、関白・一条忠香の娘である千代君(照姫)と婚約していました。
しかし、千代君(照姫)が疱瘡にかかったため、代わりに嫁ぐことになったのが「美賀君」で、その関白・一条忠香の養女となり、一条美賀子(省君)として、嫁ぐことになった訳でした。
ちなみに、天璋院篤姫が、第13代将軍・徳川家定の正室になったのは、翌年の1856年のことです。

徳川美賀子は、1858年7月16日に、女の子を出産しましたが、7月20日に夭折しています。
翌年の1回忌に、徳川慶喜は出席もしておらず、2人の仲は、決して、良いものではなかったようです。
その1858年、日米修好通商条約への勅許を出すことに反対した八十八卿に、兄・今出川実順(いまでがわ-さねあや)が加わっており、大老・井伊直弼の「安政の大獄」にて処罰を受けています。

徳川慶喜が、将軍・徳川家茂の後見職になって京に出向いて国政を担う反面、徳川美賀子は江戸に残っており、しばらく、別居する形となります。
1866年、徳川慶喜が第15代将軍になった際も、二条城にいたため、徳川美賀子(省子)も、江戸城の大奥に、入る必要が無かったようです。

1868年、鳥羽伏見の戦いの際に、徳川慶喜は、大坂城から江戸に戻りますが、迫る新政府軍に対抗しない姿勢を取るため、上野・寛永寺にて謹慎しました。
その後、駿府・宝台院に移って、引き続き謹慎したため、徳川美賀子(省子)も、東京の水戸藩小石川の屋敷にと、別居が続いたようです。
なお、明治に入ってから、名前を「美賀子」に改名しています。
明治2年(1869年)9月、謹慎が許されても、徳川慶喜は静岡に滞在したため、徳川美賀子(美賀君)は、静岡にて、約10年ぶりに夫婦で生活するようになりました。
ただし、徳川慶喜は側室である、新村信、中根幸を寵愛したようです。
なお、側室が生んだ子供(10男10女)は、すべて徳川美賀子を実母として育てられています。




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明治27年(1894年)、乳癌になった徳川美賀子(美賀君)は、治療のため東京にある徳川家達の屋敷に移りました。
5月19日、名医・高松凌雲の手術も受けましたが、肺水腫が併発するなどし、1894年7月9日に、千駄ヶ谷の徳川屋敷にて死去しました。享年60。
院号は貞粛院で、墓所は東京・谷中墓地になります。

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