幕末の剣術流派~服(まつろ)わぬ者達の流儀

幕末の剣術流派~服(まつろ)わぬ者達の流儀

天然理心流と土方歳三

「天然理心流」は、寛政年間(1789年~1801年)近藤内蔵之助長裕(ながみち)が創始した流派である。近藤内蔵之助は、生年不詳~文化四年(1807年)、遠江国の生まれといわれる。天然理心流宗家は代々近藤家が襲名した。天然理心流三代宗家・近藤周助が江戸市中の市谷柳町に剣術道場「試衛館」を開設した。幕末、新撰組局長で武名を馳せた近藤勇昌宣は、三代宗家近藤周助(周斎)の養子となり天然理心流四代宗家を襲名した。
天然理心流の他流に無い特徴は、江戸近在まで出稽古を行い、武士階級以外の門弟を広く集めたところである。特に武蔵国西部(現在の東京都多摩地区及び埼玉県西部)へは盛んに出向いて門弟を募った。多摩郡日野宿名主・佐藤彦五郎宅には「試衛館」の分所を置くまでとなった。多摩郡は、元武士階級の名主豪農層だけでなく商人農民も尚武の気風が強い土地柄であった。江戸開幕の際、徳川家康は、武田遺臣を八王子千人同心として多摩郡八王子に屯田させ天領(幕府直轄地)とした。天領の領民は徳川将軍家直参の意識が強く、一朝事在る秋は身分によらず幕府への忠誠心が高い。この風土が、新撰組・鬼の副長土方歳三、ひいては新撰組を生み出す基調となっている。




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 土方歳三(諱は義豊)、天保六年(1835年)生~明治二年(1869年)没 享年三十五歳。盟友近藤勇の一歳下であり、享年は同じ三十五歳である。生家は武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)の豪農であった。一説では、少年期に江戸の商家で丁稚奉公したが、生来の喧嘩早い性格が仇となり日野に帰されたともいわれている。多摩在所の方言で向こう見ずな乱暴者を「バラガキ」と形容するらしいが、土方歳三は「バラガキの歳」と呼ぶに相応しかった。生家に戻った土方歳三は、土方家秘伝薬「石田散薬」の行商を行っていた。姉・らんの嫁ぎ先佐藤彦五郎の縁により天然理心流四代宗家・近藤勇と知己となり天然理心流に入門した。
 文久三年(1863年)二月、徳川幕府十四代将軍・徳川家茂警護の浪士隊に応募し、近藤勇を筆頭とし、土方歳三、山南敬助沖田総司等の試衛館同門達と上洛した。同年、内部抗争を勝ち抜いた結果、近藤勇が局長、土方歳三が副長とする新撰組が立ち上がった。
 新撰組といえば洛中の尊王攘夷派志士の根絶やしを目論んだ佐幕派の保守中の保守と思われがちであるが、皆がそうではない。唯一現存する土方歳三の写真がある。椅子に座り、衣服は洋装で長靴、髪はオールバック、腰には会津兼定が鍛えた愛刀和泉守兼定を佩用している。だれもが一度は目にした有名な写真である。諸説はあるが、明治二年(1869年)、箱館戦争で戦死する直前に撮影された写真といわれている。では、土方歳三はいつ頃、洋装の軍服に改めたのか。それは明白で慶応四年(1868年、九月八日明治改元)、鳥羽伏見の戦いで敗北し、江戸へ帰還後すぐさま武器も軍服も洋式に切り替えた。土方歳三の愛用の銃は、当時の最新鋭であった元込めライフルであった。薩長以外、諸藩の藩兵はまだ火縄銃しか持っていなかった時期である。江戸帰還後、土方歳三は佐倉藩重臣にこう述べている。
「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を佩び槍を執る。一つも用いる所無し」
鳥羽伏見で味わった屈辱と再戦に当たっての土方歳三の合理性が窺える科白といえる。
 
筆者は、以前土方歳三終焉の地を訪れ合掌した思い出がある。小さな公園の一角に石碑と一本木関門が建っている。五稜郭まであとわずかな距離である。石碑と一本木関門までの道のりはJR函館駅前から国道五号線の裏通り(八幡通)を徒歩で10分ほど行けば簡単にたどり着ける。この地で銃弾に斃れたのだと想うと感慨ひとしおであった。土地の初老の方の話によると参拝者が多く手向けの花が絶えることはないとのことであった。ただここに土方歳三は永眠っていない。というより土方歳三の遺体が埋葬されている場所は確定されていないのである。よって生存説が消えることは無い。
服(まつろ)わぬ者よ、永遠なれ。
 

薬丸示顕流と桐野利秋

 「薬丸示顕流」は、薩摩藩士薬丸兼陳(かねのぶ)が創始した流派である。薬丸兼陳は、慶長十二年(1607年)~元禄二年(1689年)享年八十二歳、薩摩示現流の流祖東郷重位の高弟五人の一人であった。薩摩示現流を修めた後、「野太刀」を取り入れた「薬丸示顕流(正式名・野太刀示顕流)」を生み出した。薬丸示顕流の特徴は、並立する他の薩摩示現流と同様で、先制攻撃を主眼とする剣法である。よって、防御の構えは存在しない。薬丸示顕流の先制攻撃の凄まじさは、一の太刀で鍔合わせになった場合、敵の太刀ごと押し切ってしまうほどであったといわれている。新撰組局長・近藤勇をして
「薩摩の一の太刀は何としても避けよ」といわしめた。また、「猿叫」も特徴のひとつであろう。「猿叫」とは、打ち込み時に発する奇声をいう。代表的なのは「チェストー」が有名であるが、特に決まった言葉はない。各々が裂帛の気合を込めて叫ぶのである。




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 幕末薩摩人志士から明治陸海軍の将帥までの多くがこの流派の門弟として名を連ねている。この章で取り上げた桐野利秋(陸軍少将)はじめとして有村次左衛門(桜田門外の変で活躍した唯一の薩摩人)、大山綱良(初代鹿児島県令)、西郷従道西郷隆盛実弟、元帥海軍大将)、東郷平八郎(元帥海軍大将、日本海海戦時の連合艦隊司令長官)野津道貫(元帥陸軍大将)他、枚挙に暇がない。
 では、桐野利秋について語っていこうとおもう。通称の中村半次郎は明治以前の名前で明治以後は「桐野利秋」と称した。以後表記を維新前は中村半次郎、維新後は桐野利秋とする。天保九年(1839年)生まれ、明治十年(1877年)西南戦争にて戦死。享年三十八歳。生誕地は、鹿児島城下近在吉野村(現在の鹿児島市吉野町)である。
 中村半次郎といえば、同じ薩摩の田中新兵衛、肥後の河上彦斎、土佐の岡田以蔵をして幕末四大人斬りといわれている。しかし、中村半次郎が暗殺剣を振るった記録は、西洋式軍学教練のため信州上田藩から薩摩藩京都屋敷に招聘された赤松小三郎を斬った慶応三年(1866年)の暗殺一件のみである。ではなぜ「人斬り半次郎」なる不名誉な異名が付けられたのだろうか…。筆者の考察では、理由は二つあると思う。一つは出自の貧しさで学問を修めることができなかったことであろう。中村半次郎十歳の時、父親が罪を得て徳之島に流罪に処せられ、家禄を召上げられ小作人や畑開墾で糊口をしのぐ有様であった。二つ目の理由は、貧困により学問を修められなかったことで独力でも可能な剣技を研くことに注力し人並外れた技量を持つに至った。上記の二点により「人斬り半次郎」という無学で人斬りに長けたという虚像が出来上がったのではないだろうか。
 では中村半次郎(桐野利秋)の実像はどのような人物であったのか。中村半次郎の幕末期の志士活動、戊辰戦争期や維新後の桐野利秋の軍歴からは、職業的暗殺者特有の陰惨さが全く感じられない。
西郷隆盛が桐野利秋を評して曰く
「桐野をして学問の造詣あらしめば到底我の及ぶ所に非ず」
 人を過大評価する傾向がある西郷隆盛であるが、常に側近に置き諸藩諸方への使者や要人の警護に中村半次郎を使った。また、中村半次郎の気質を西郷隆盛はこよなく愛した。
「性、剽悍にして清廉潔白、豪放磊落にして情誼に厚し」まさに薩摩隼人を具現化したような男であった。
 明治元年(1868年)、会津戦争の末、会津若松鶴ヶ城受け取りに赴いた桐野利秋は城内の惨状を目の当たりにし人目も憚らず男泣きに泣いたと云われ、また、城内の藩士に対しては決して驕った態度は取らず、武士としての礼節を以って接した。後に、会津藩最後の藩主で京都守護職であった松平容保は、桐野利秋の厚情を謝し金銀造りの大小の太刀を贈呈した。
 明治新政府では陸軍少将叙任、熊本鎮台総司令官、陸軍裁判所所長を歴任した。徳川幕府下で長く李氏朝鮮との外交を担当してきた対馬藩が廃藩置県により消滅したのを受け、出先機関として釜山にあった草梁倭館の撤収にも携わった。桐野利秋の能力は、大軍を率いた司令官のそれではなく、帷幕にあって軍政を整えるところで発揮できたのだと思う。楚漢戦争での劉邦麾下の韓信ではなく蕭何の如き者である。薩軍三万を総司令官として実質率いた西南戦争でも、短期戦が必須であったにもかかわらず熊本城陥落に固執した結果、山縣有朋率いる政府軍に万全の体制を整える時間を与えてしまった。この一事でも桐野利秋の戦略眼の無さが見て取れる。筆者が桐野利秋であれば薩軍唯一の勝利の戦略であろう鹿児島から艦船に分乗し、東京を急襲の上、明治天皇を推戴し軍事クーデターを決行する。西郷隆盛の維新での功績とカリスマ性、戊辰戦争を戦い抜いた薩軍の軍事力をもってすれば容易かっただろう。




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今から十年くらい前の新緑の候、鹿児島城山にある「南洲翁終焉之地」と刻まれた石碑の前に筆者は立っていた。道程は、鹿児島中央駅から路線バスに乗り、「薩摩義士前」のバス停で下車。鹿児島本線と日豊本線の線路に架かる跨線橋を渡り線路沿いの緩やかな坂を下った所に石碑が建っている。
威風堂々した石碑で、あたかも西郷南洲が鎮座しているかのように錯覚してしまった。
「一蔵どん、桐野達んような言うことを聞かん若けしはみんなオイが連れっ逝っ。じゃっで、あとん日本はおはんにお任せすっ。しっかい頼んみゃげもす」
周りの木々を吹き渡る初夏の薫りに満ちた風の中で、西郷南洲の遺偈を筆者は確かに聴いた。今から百五十年、西郷南洲が自刃し、桐野利秋ら薩軍幹部が壮烈な戦死を遂げた血腥い光景とはいかにも対照的だった
服(まつろ)わぬ者よ、永遠なれ。

私見考

歴史の分岐点では、革命を支える思想を提唱する思想家、吉田松陰が如き人物がまず出現する。次に表れるのが既存の組織を変革し改造しようとする変革者、武市半平太が如き人物。更に既存の組織に見切りをつけ組織そのものの破壊を目指す破壊者(革命家)、高杉晋作が如き人物。そして、最後は破壊された後に新しき組織を構築する建設者、大久保利通が如き人物が現れ革命を成就させる。しかし、服(まつろ)わぬ者達を生んでしまうのも歴史の必然といえるかもしれない。
前章で坂本龍馬、高杉晋作、武市半平太が維新後まで命を長らえたとしたらという考察をした。今回も土方歳三が戊辰戦争を生き延びたら、桐野利秋が西南戦争を生き延びたら、と考察を試みた。しかし、想いが及ばない、生き延びた姿が浮かび上がらない、一行も書けず行き詰まった。その時、ある思いに行き当たった。
「そうだ、そうなんだ。彼等は死ぬべき時に死ねたんだ。降伏し命を長らえられたとしても、生き長らえた彼等はもう彼等でなくなっているんだから」
服(まつろ)わぬ者を突き動かす源は、生死でなく是非でもなく、ましてや損得ではない。では何か?土方歳三、桐野利秋達をはじめとする歴史上現れた反逆者達の生き様と死に様を知れば自ずとわかる。それは、「矜持」であると筆者は思う。信じる自分の理想、信念、誇りがあるかぎり決して彼等は服(まつろ)いはしない。

追記

 「南洲翁終焉之地」での参拝のあと、石碑前の道を進んでいく。緩やかな登り坂道が続く。
明治十年(1877年)九月二十四日早朝、西郷隆盛を首領として桐野利秋ら薩軍幹部達が最期の突撃を敢行するため駆け下った坂道である。
S字カーブを曲がった先に目的地はあった。「西郷隆盛洞窟」と呼ばれる洞窟である。九州転戦の末、城山に立て籠もった西郷隆盛達が最期の五日間を過ごした洞窟である。広さ二畳ほどの粗末な洞窟がいくつもある。
 洞窟の側に由緒ありげな土産物屋があった。中に入って商品を見ていたら店主と思しきご婦人に声をかけられた。多少ヨイショのつもりでたずねてみた。
「西郷隆盛は偉人ですよね。西郷は今でも鹿児島じゃ英雄なんですか?」
 この質問がミスであった。ご婦人の顔が一瞬だけムッとした。読者諸兄にはこの質問の何がご婦人を不愉快にさせたと思われるだろうか。
 
ご婦人曰く
「お客さんは旅行者じゃっでしかたなかけど、鹿児島で西郷隆盛とか西郷とかの呼び捨ては許されん。西郷先生か、せめて西郷さんとお呼びやんせ。特に年配者の前では」
「ごめんなさい、失礼しました。以後気を付けます。ところで、同じ薩摩の偉人である大久保先生もやはり呼び捨ては無礼になりますか?」
 「大久保さあは大久保でも大久保利通でん問題なか。アン人は西郷先生の仇や。鹿児島人じゃなか、政府の偉かし人」
 ここにも一人いた、服(まつろ)わぬ者が…。 




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(寄稿)大松

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