幕末の剣術流派~維新に散った兵(つわもの)達の流儀「幕末江戸三大道場」

幕末江戸三大道場

北辰一刀流坂本龍馬

「北辰一刀流」は、千葉周作(諱は成政)が創始した流派である。千葉周作の生没年は、寛政五年(1793年)~安政二年(1856年)享年六十三歳。千葉周作の出生地は、岩手県陸前高田市説と宮城県栗原市説があったが、最新の研究結果では宮城県気仙沼市生まれ、宮城県大崎市育ちが有力視されている。若年より「北辰夢想流」「小野一刀流中西派」を学んだ。後にこの二流派を合一し、自らの流派「北辰一刀流」を創始した。武蔵国、上野国、信濃国と巡り剣技を研き門弟を募った。文政五年(1822年)、日本橋品川町に玄武館を開いた。後に玄武館は神田お玉が池に移転した。
「北辰一刀流」の特徴は、後世において「技の千葉」と称されたようにひたすら技術向上をめざした稽古法を採用した。従来の剣術修行には宗教観や神秘性を取り入れた流派も多数あった。しかし、「北辰一刀流」ではそれらを排除し、合理的な稽古法と簡略化された免許目録制度を採用した。合理的な稽古法とは、入門直後の初心者には「組太刀稽古(型稽古)」から始め、竹刀と防具を用いた人対人の打ち込み稽古に移行する。竹刀と防具を用いた打ち込み稽古は現代剣道に通じる。簡略化された免許目録制度とは、それまで八段階あった伝位を「初目録」「中目録免許」「大目録皆伝」の三段階に簡略化した。その合理性が喜ばれ武士以外の入門者も多数いたといわれている。




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 北辰一刀流を学んだ人物といえば、坂本龍馬が有名である。坂本龍馬は、土佐国高知城下の郷士の家に生まれた。生没年は、天保六年(1836年)~慶応三年(1867年)、享年三十一歳であった。
 嘉永六年(1853年)、坂本龍馬は剣術修行のため一年間の私費江戸遊学を藩に願い出て許可された。私費江戸遊学となればその経費は高価であったが、坂本家は土佐郷士でありつつ、高知城下で酒造業、質屋業、呉服商を営む才谷屋の分家筋にあたり裕福であった。
 坂本龍馬が入門したのは、神田お玉が池の千葉周作玄武館ではなく、同じ北辰一刀流を掲げる千葉周作の弟・千葉定吉が開く桶町千葉道場であった。玄武館入門は藩士身分でなければならず、土佐郷士の身分の坂本龍馬は桶町千葉道場になったといわれている。
 嘉永六年六月三日、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)時、坂本龍馬は臨時招集され土佐藩下屋敷の守備に当たった。任務に当たって土佐の家族宛に
「戦になれば異人の首を討ち取って見せます」との青年らしい青臭い手紙を書いている。 
 一度の延長を含む二度の江戸遊学で、佐久間象山から蘭学を学び、若山勿堂から山鹿流兵学を学んだ。本来の剣術も千葉道場の塾頭を務めるまでに上達し免許皆伝を許されている。故司馬遼太郎氏の名作「竜馬が行く」の中で神道無念流との他流試合で練兵館塾頭、長州の桂小五郎との対戦が描かれている。どちらが勝ったかに興味がある方は是非ご一読を。
 剣客坂本龍馬ではあったが、彼の並外れた先進的な感覚では武士の終焉を予感していたに違いない。ここで先覚者坂本龍馬の真骨頂たる逸話を披露しておきたい。
 坂本龍馬が海援隊を興した後、同僚が名刀を自慢してきた。龍馬は懐より拳銃を出し
「これからの時代はこれだよ」と云った。
それからしばらくして同じ同僚が拳銃を入手し、また自慢してきた。龍馬はまた懐に手を入れ「万国公法」と書かれた書物を出し
「これからの時代はこれだよ」と云った。

(私見考)もし、坂本龍馬が暗殺されなかったら戊辰戦争は回避できた。
坂本龍馬の本質は、調整者(コーディネーター)である。坂本龍馬とっては、勤王だの佐幕だの薩長土肥の権力闘争など慮外であったに違いない。彼が念願したことは、国を開き貿易を盛んにし、産業を興し国を富まし、強兵を養い列強の侵攻を排除する。彼の事蹟の尊王倒幕も薩長同盟も大政奉還もその理想実現のための方便に過ぎなかった。国土国民を疲弊させる内戦など以ての外だった。戊辰戦争を回避させる、もしくは小規模な戦闘に限定されるように調整斡旋したはずであろうし、必ず実を上げたに違いない。
維新前夜、薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允らが集まり、維新後の政権の人事を話し合った時、土佐藩の名簿に坂本龍馬の名が入ってなかった。訝しんだ西郷が理由を尋ねた。
「わしは世界の海援隊でもやりますかの」と坂本龍馬は云った。
以って瞑すべしである。

神道無念流と高杉晋作

「神道無念流」は、宝暦年間(1751年~1764年)に福井平右衛門嘉平によって創始された流派である。本項では、幕末に隆盛した流儀であることを鑑み、斎藤弥九郎(寛政十年・1798年~明治四年・1871年 享年七十三歳)と彼が起こした練兵館に焦点を当てる。斎藤弥九郎は、越中国射水郡仏生寺村(現在の富山県氷見市)出身の農民であった。紆余曲折の末、江戸出府し旗本に小者となって奉公した。才覚を主人に見出され、学問武芸に励んだ。特に剣術に秀で二十歳代には「神道無念流」岡田吉利の撃剣館の師範代を務めるまでになった。文政九年(1862年)、二十九歳で独立し、九段下俎橋(後に九段坂上に移転、現在の靖国神社境内の一角)に練兵館を創設した。流派の特長は、後世において「力の斎藤」と称されたように強かな打ち込みのみだけが一本と認められた。従って稽古中の負傷者が多く、荒稽古が嫌悪され入門者が減少した時期もあった。
 練兵館の特筆すべきことの一つに「長州藩」との強いつながりが挙げられる。塾頭を務めた桂小五郎(後の木戸孝允)をはじめとして高杉晋作、井上聞多(後の井上馨)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)等々、明治維新の原動力となる長州藩出身の門下生を輩出した。それは斎藤弥九郎自身が尊王攘夷思想の持ち主で、稽古の傍らで塾生に対し尊王攘夷論の講義を行ったり、長州藩継嗣・毛利元徳に尊王攘夷思想の大義を進講したりもした。
 関ヶ原合戦において西軍総大将に担ぎ上げられた毛利氏は、敗戦により山陰山陽八か国の太守から防長(周防国、長門国)二か国に封じ込められた。以来、明治維新まで連綿と受け継がれてきた儀式があった。それは正月に萩城の奥深くで極秘裏に行われる儀式で、当代毛利藩主と筆頭家老の二人だけで次のような会話が交わされたという。
まず、筆頭家老が御前に畏まり、
「殿、徳川(この場合、トクガワ云わずトクセンと呼び捨てる)討伐の支度が合整いました。いかが計らいましょうや」
 すると藩主が、
「未だ時期尚早である」
 と応える。




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 この空虚であるが毛利元就が創り上げた大毛利の気概が窺われる儀式である。この空虚な儀式を文字通り実戦した人物こそが高杉晋作その人であった。
 高杉晋作(天保十年・1839年~慶応四年・1867年、享年二十七歳)は、長州藩上士高杉小忠太の嫡男として萩城下に誕生した。藩校明倫館を経て吉田松陰が主宰する松下村塾に入塾し、久坂玄瑞と並んで「村塾の双璧」と称された。
革命家高杉晋作の面目躍如たる功績として「奇兵隊」の創設が挙げられるだろう。長州藩上士育ちの高杉晋作の目から見ても、代々禄を食んできた武士階級の堕落と脆弱さは救いがたい惨状に映った。精強な長州軍の創設には、身分階層に囚われない志願兵の徴募が不可欠であった。こうして誕生したのが日本初の市民軍「奇兵隊」である。郷土防衛の士気が高い兵士に、坂本龍馬が調達した新式銃を装備し、大村益次郎がヨーロッパ式軍事学で訓練教育を行った。四境戦争(第二次長州征討)おいて長州軍は、圧倒的な数を誇る幕軍を各方面で完膚なきまで撃破した。高杉晋作は、九州小倉口の司令官に任命され、小倉城を陥落させた。

(私見考)もし、高杉晋作が病死しなかったら徳川慶喜は討死していた。
 高杉晋作の本質は、破壊者(デストロイヤー)である。幕藩体制の破壊者であるのは勿論、既製の価値観の破壊者である。奇兵隊の創設は武士階級の破壊であり、功山寺決起は藩政府の転覆であり、四境戦争は幕府権力への反乱であった。高杉晋作という男は、自らの理想の実現のためには障害となる思想、人、組織の破壊に躊躇がない。彼にとって無血の政権交代である大政奉還など有り得ず、徳川幕府は武力によって討滅されなければならず、朝敵徳川慶喜は討死されなければ革命は成就されない。焦土の上にこそ新生日本が生まれる。かつての長州藩がそうであったように。
 このような逸話が残っている。攘夷実行のため上洛してきた徳川幕府十四代将軍・徳川家茂の行列に向かって
「ヨッ、征夷大将軍」と放言したのが高杉晋作であった。
以って瞑すべしである。

鏡新明智流武市半平太

「鏡新明智流」は、安永年間(1772年~1780年)に桃井直由によって創始された。当主は、代々「桃井春蔵」を踏襲した。幕末に江戸三大道場として「士学館」の名を挙げたのは「四代桃井春蔵」である。四代目の本名は桃井直正(文政八年・1825年~明治十八年・1885年 享年六十歳)という。元は駿河国沼津藩士の子弟で田中直正といい、十四歳で三代目桃井春蔵の士学館に入門。長じて才能を見込まれ三代目の養子となり二十七歳の時、四代目桃井春蔵を襲名した。「位の桃井」と称されたとおりに人品に秀でており、無骨な剣客というより温和な教育者との印象を周囲に与える人物であった。その人柄によってであろうか文久二年(1862年)幕臣に登用され、翌年(文久三年・1863年)に幕府講武所(幕府運営の剣術指南道場)の剣術教授方に抜擢されている。慶応三年(1867年)、徳川十五代将軍徳川慶喜の上洛時に警護役として同行した。幕末動乱を経て晩年は、応神天皇陵の陵掌(陵墓の管理者)を務め、誉田八幡宮(応神天皇陵に隣接する応神天皇を主祭神とする八幡宮)の神官を務めた。
 四代目桃井春蔵の士学館の塾頭を務めたのが、土佐の武市半平太(文政十二年1829年~慶応元年1865年 享年三十五歳)であった。武市家は土佐郷士の家で文政五年(1822年)に白札郷士挌(上士扱)に昇進した。安政二年(1855年)、高知城下に道場を開いた。門弟には中岡慎太郎岡田以蔵などがおり、後の土佐勤王党結成に繋がる。
 安政三年(1856年)、藩命により剣術修行のため出府する。叩いた剣術道場の門が鏡心明智流四代目桃井春蔵の士学館であった。すでに土佐おいて一門を率いていた武市半平太は免許皆伝を授けられ士学館の塾頭に抜擢された。
 文久元年(1861年)、武市半平太は、土佐勤王党を旗揚げし、土佐前藩主山内容堂の信任を受け土佐藩一藩勤王へと藩論を導くことに成功した。現藩主山内豊範を擁して上洛し、京都守護と国事周旋の勅命を山内豊範に降下せしめた。この頃から藩の実権を握る老公・山内容堂は、郷士や下級藩士からなる土佐勤王党の台頭を不快としていた。時代の潮流により尊王攘夷運動を黙認していたが、文久三年(1863年)の「八月十八日の政変(会津藩と薩摩藩による長州藩を主体とする尊王攘夷派の京都からの追い落とし)」により公武合体派が主流になり、土佐勤王党への弾圧が開始された。そもそも、土佐山内家は、関ヶ原の戦の功績により徳川家康から土佐一国二十万石を拝領した。関ヶ原敗戦で逼塞した薩摩藩や長州藩と成立過程が違ったのである。慶応元年(1865年)七月三日、武市半平太に切腹の沙汰が下され、即日執行された。武市半平太は、誰も成しえなかった腹を三の文字に切る「三文字割腹」を見事に完遂させ絶命した。
敢えて言おう




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「土佐藩一藩勤王」に拘ったことが武市半平太の失策であり限界であった。土佐藩という枠組みを乗り越えて尊王攘夷の大義に奔走する才気も機会も武市半平太にはあったはずである。だが武市半平太は、尊王攘夷の大義実現のためには土佐藩という組織に拘泥した。現在所属する組織を再編し変革することによって大義を実現する方法を選択した。そして、最終的には組織に裏切られる結末を迎えた。
 土佐一藩尊王攘夷に拘る武市半平太と反目し脱藩した坂本龍馬を評して、
「龍馬は土佐に収まりきらぬ奴じゃ。だから広い世の中に放り出してやった」と云った。
 どうしても組織から脱却できない武市半平太の自虐と奔放な活動家となった盟友坂本龍馬への羨望が入り混じった心情の吐露に思える。

私見考

もし、武市半平太が切腹させられなかったら自由民権の闘士になっていた。
武市半平太の本質は、扇動者(アジテーター)である。一藩士、しかも郷士にしか過ぎない武市半平太が、郷士を糾合し土佐勤王党を結成、土佐を代表して他藩との周旋、朝廷への工作を取り仕切った。武市半平太の主義主張が卓越し政論が時宜に合致していたのは勿論だが、弁舌の徒ではなく組織に働きかけ同調させ主導する能力が他を圧倒していた。
武市半平太の扇動者としての能力が遺憾なく発揮できる舞台が維新後の土佐高知に用意されていた。自由民権運動である。明治十年(1877年)の西南戦争の敗北により反政府活動は、武力行使を諦め言論闘争へと移行せざる得なくなった。中心的存在であった土佐自由党が維新前に見せた武市半平太の手腕を放置するはずもない。奇しくも自由党総理となった板垣退助は、維新前は武市半平太の子分であった。武市半平太の奉じた尊王思想と自由民権思想は相容れないと思うかもしれないが、一君の元に万民は皆等しいという思想は何ら矛盾しない。イギリス立憲君主制の根本原理である。
隈板内閣(大隈重信総理・板垣退助内務大臣)として政府に取り込まれてしまった板垣退助のような中途半端な政党内閣で妥協せず、武市半平太は創設されたばかりの帝国議会議場で堂々と反藩閥の論陣を張り藩閥領袖であった伊藤博文や山県有朋の好敵手になったであろう。
以って瞑すべしである。

(寄稿)大松

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