高杉晋作とは
高杉晋作(たかすぎ-しんさく)は、幕末の尊王攘夷派の志士である。
生まれは、1839年(天保10年)8月20日、長州で萩(現在の山口県)で生まれた。
幼少期は病弱な子供だったと言われている。
14歳になった時、藩校である明倫館に入ったが落第を繰り返し、授業もつまらなく感じていたという。
その後、18歳で後の人生で大きな影響を受けることになった松下村塾で学ぶことになる。
※『松下村塾』…幕末に現在の山口県萩市に存在した私塾である。
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ここで高杉晋作は吉田松陰から兵学・漢字・歴史等々様々な教育を受け、久坂玄瑞、吉田捻麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれるまで成長した。
特に晋作と久坂玄瑞の二人は松下村塾の双璧と呼ばれた。
松下村塾は身分を問わず誰でも入塾することができた。
吉田松陰の教えは一方的に教育するのではなく一人ひとりが才能を伸ばし積極的に皆が議論するように促す教育だった。
この塾の門下生には後の初代総理大臣になる伊藤博文、山縣有朋、野村靖など日本を支えていく人物を輩出した。
※長州藩…幕末の日本はペリーの黒船来航以来開国に迫られていた。
欧米列強の圧力を受け正に混乱状態であった。
この様な弱腰な幕府体制に打倒幕府を掲げ、急先鋒に立ったのが長州藩だった。
そして1864年両者は京都御所付近で衝突する。
禁門の変である。
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禁門の変は長州藩の敗北に終わった。
これにより幕府は長州を天皇に歯向かった朝敵として長州征伐を発令した。
第一次長州征伐である。
その後、京都や江戸では幕府の体制に異議を唱える思想家たちは次々と逮捕されていくになる。
安政の大獄と呼ばれる。
そして、晋作最大の恩師、吉田松陰が捕まり処刑されてしまう。
1863年とうとう高杉晋作は立ち上がる。
吉田松陰の考えを継ぎ志があれば身分問わず誰でも入ることができる奇兵隊を作った。
まさに松下村塾の理念を継いだ部隊がここに誕生した。
奇兵隊決起からの生涯
その後高杉は下関市長府の功山寺にて決起集会をし決起の呼びかけには当初80人余りであったが下関周辺の藩を次々に落として進撃を続けていくうちに勢いを見た武士や民衆が合流し、その数は3000人にまで膨れ上がったという。
1866年、将軍・徳川家茂は勢いが乗っている長州に再び15万もの大軍勢を送り込む。
第二次長州征伐が始まった。
これを迎え撃つ高杉軍はわずかに1000人程度であった。
実に兵力差は50倍であった。
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50倍もの兵力差を相手にどう戦うか…高杉は周到に準備を整え、作戦を練った。
作戦の一つに、漁師を行商人に仕立て、幕府軍の兵士に近づき情報を聞き出していたという。
さらに正確に砲弾が撃ち込めるよう関門海峡の測量地図を事前に作らせていた。
この様な事前の諜報活動によって高杉軍は戦闘を有利に進めていった。
田野浦の戦いは小倉藩の港を目指した高杉軍と幕府軍との戦いである。
幕府軍側の司令官は老中・小笠原長行である。
長行は秀才官僚であったが戦闘経験はない文官であった。
戦闘は高杉の戦略通り、事前の測量のおかげで長州軍の砲弾が確実に敵の陣地に命中し幕府軍は大混乱に陥り、さらにその隙をつき田野浦への上陸を成功させ西洋式の新型武器を持つ長州軍は幕府軍に圧勝することになった。
この奇襲作戦により幕府軍の長州上陸を不可能にさせることに見事成功した。
まさかの敗北を喫した幕府軍の小笠原は戦況の挽回のため軍艦『富士山丸』を呼び寄せた。
当時、日本最強の西洋式軍艦であった。
しかし幕府軍には誤算が起こっていた。
この年は猛暑ということもあり病気が蔓延し食糧不足が地元の幕府小倉陸上軍に起きていた。
そのことで彼らの戦意は低下していたという。
6月29日、幕府の軍艦・富士山丸が関門海峡に到着する。
ここでも高杉は戦略を練り作戦を発動する。
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関門海峡ではありふれた石炭船を偽装させそして富士山丸に接近させた。
その瞬間突如この石炭船から富士山丸に砲撃を開始させたことにより幕府軍はまたも混乱に陥り砲弾を受けた富士山丸はそのまま戦場を離脱した。
長州軍はその隙をつき幕府の拠点であった九州・大里を攻略、小倉軍を圧倒した。
またもや高杉の作戦が成功することになる。
敗北に次ぐ敗北が重なった幕府軍司令官、小笠原はここでようやく陸上での戦いに切り替えることになった。
大里での敗北の5日後、小笠原は熊本藩の兵を小倉藩の援軍として出動させた。
熊本軍は最新型の銃を装備している最強の戦力を誇っていた。
高杉はこの戦いではあえて動かず持久戦を選んだ。
しかし戦闘が膠着状態に入り半月が過ぎたとき、高杉の身に異変が起きる。
患っていた結核が悪化し吐血する危険な状態になっていた。
その中でも病をおして出陣し奇兵隊の指揮を執り続けた。
そして小倉城攻略の最後の難関である赤坂の戦いに突入することになる。
赤坂は天然の要塞の地であり攻略にはいくつもの障害が待ち受けていた。
急峻な坂があり移動や物資の輸送にも困難な地でもあった。
また相手は幕府最強の熊本軍である。
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1866年7月赤坂の戦いが始まる。
戦闘は夕方まで続き、病をおして最前線で高杉は指揮を執り続ける。
しかし、熊本軍の最新装備の威力に長州軍は押され兵力全体の1割を超える死傷者が出たという。
赤坂の戦いは長州軍の敗北という結果になった。
しかし高杉はあきらめなかった。
最後の賭けにでる。
その後高杉は赤坂の近くに砲台を築き、自分の陣にかがり火を一晩中炊き続け熊本軍に奇襲をかけると思わせる心理戦を展開する。
この作戦が功を奏し、幕府軍の小笠原と熊本軍が軍の交代をするか否かで喧嘩を始め、最終的に熊本軍が断りなく赤坂から撤兵し引き上げたのである。
さらに将軍・徳川家茂が死去したとの知らせも入りついに小笠原は極秘で小倉を離脱。
これを知った諸藩の軍勢も次々と撤兵していった。
ここでも高杉の作戦は成功したのである。1866年8月1日小倉藩の兵士が小倉城に火を放ち炎上。
強い連帯感と結束力によって長州軍の見事な勝利で戦いは終わることになった。
小倉城の炎上から1か月後、長州藩と幕府の間で戦闘の停止が決められた。
この間長州軍と対戦していた各藩も新長州派になった。
その後高杉は療養のため下関の家に移ったといわれる。
小倉城攻略から約7カ月後、高杉晋作は享年29歳という短い生涯を終えた。
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高杉晋作は頑固者で意地を張る性格だったことから松下村塾の塾生から『離れ牛』と呼ばれていたというが松下村塾での仲間との出会いと成長を通じてこれまでの短く、太かった生き様、奇兵隊の仲間から絶大の信頼を寄せられていたこと、天才的な発想、ひらめき、大胆な行動力と決断力はまさに幕末の風雲児として人々の記録に残っている。
(寄稿)田村麻呂
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