田辺太一の解説~江戸幕府外交事務の官僚【青天を衝け】

田辺太一とは

田辺太一 (たなべ-たいち) は、儒学者で幕臣の田辺誨輔(田辺石庵)の次男として、幕末の天保2年(1831年)に生まれましたが、出生地は不詳です。

田辺太一

秀才であり、18歳で、江戸幕府の昌平坂学問所に入学すると、儒学などで優秀な成績を収め、甲府徽典館(きてんかん)の教授になり、著書も多かったようです。
そして、安政4年(1857年)、木村喜毅のもと、長崎海軍伝習所の第三期生に抜擢され、根津勢吉、松本良順、勝海舟らと練習艦「観光丸」で操船技術などを学んでいます。
安政6年(1859年)、外国方となると、外国奉行・水野忠徳の下で横浜開港の事務を担当しました。
また、中浜万次郎(ジョン万次郎)の進言により、江戸幕府が小笠原諸島の領有権を確保するべく調査した際には、小笠原島開拓使の水野忠徳と咸臨丸(艦長・小野友五郎)に乗り込み、30歳の田辺太一は外国奉行支配調役並(扶持米30俵)として測量を行っています。




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文久3年(1863年)、外国奉行組頭に昇進すると、横浜鎖港の交渉団34名に抜擢され、池田長発に従い、杉浦譲(杉浦愛蔵)らと、12月、パリに赴きます。
フランス軍艦ル・モンジュ号に乗船すると、上海・インド・カイロなどを経由して、翌1864年3月、マルセイユから上陸してパリに到着すると、ナポレオン3世に謁見しています。
しかし、横浜鎖港の交渉は決裂し、フランス政府と「パリ約定」を結びます。
ところが、パリ協定や開国は、江戸幕府の方針では無かったため、日本は破棄し、田辺太一も帰国すると免職となって謹慎処分が下りました。

その後、外国奉行手附書翰取調之御用重立取扱として復職すると、幕府の外交文書を集めた「通信全覧」の編纂に当たっています。
また、関税改訂談判の交渉事務も行い、慶応2年(1866年)には、組頭勤方に再任されました。

慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に徳川昭武らが出席することになると、1度、フランスに渡った経験をかわれて、駐仏全権公使・向山黄村(向山一履)に従い、再度パリに赴き、フランス政府と折衝を担当しました。
随行員には、栗本鋤雲・向山一履・福地源一郎高松凌雲・杉浦譲(杉浦愛蔵)らの名が見られます。




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パリ万博に薩摩藩が、幕府とは別に「日本薩摩琉球国太守政府」の名で出展していたのを見ると、薩摩側代理人モンブラン伯爵(ベルギー貴族)に、向山一履と田辺太一が抗議しました。
<注釈> 薩摩藩の展示物が、日本パビリオン全体の3割を占めていた。
なお、ヨーロッパ滞在中に、外国奉行・川勝広道から、徳川慶喜の大政奉還と、江戸幕府の滅亡の報を受けます。
そして、1868年3月にフランスより帰国すると、江戸幕府の目付となっていますが、これは江戸城開城後の処理のためで、1ヶ月ほどで罷免されています。
また、徳川宗家が静岡に移住すると、忠節から田辺太一も従って、沼津兵学校の教授に就任しました。

その後、明治3年1月、明治新政府に外務少丞として登用されると、各国往復書翰ならびに編集取調主任となりました。
翌年、岩倉遣外使節団として岩倉具視、副使・木戸孝允大久保利通伊藤博文、山口尚芳らの欧米派遣が決定すると、田辺太一は書記官長として、塩田三郎、福地源一郎など一等書記官と一緒に、アメリカとヨーロッパに渡っています。
明治7年には、大久保利通に随行して北京に出張し、清国政府と台湾出兵の重要な事務交渉を担っています。
明治12年、清国に勤務すると、明治16年には、元老院議官、明治23年貴族院議員となりました。




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著書に幕末外交談があります。
従三位・勲三等に叙せられ、大正4年(1915年)東京にて死去。享年85。
田辺太一の墓所は青山霊園になります。

2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、俳優の山中聡さんが、田辺太一を演じられます。

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