浜田弥兵衛とは
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の第4話で主人公・渋沢栄一が従兄で後に義兄にもなる尾高惇忠から“浜田弥兵衛の本が手に入った”と聞かされる場面があります。異人の侵略を憤る栄一と惇忠が英雄として称えた浜田弥兵衛とは、どのような人物だったのでしょうか。本項では、彼を歴史の表舞台に押し上げたタイオワン事件(濱田彌兵衛事件)と共にその事績を紹介していきます。
幕末にもてはやされた浜田弥兵衛は生年不明で、長崎の人と言う事しか分かっていません。判明している事は、寛永年間(1624~1645年)に長崎の代官・貿易商人だった末次平蔵と言う人物の朱印船でその船長を務めていたと言うことです。本格的な鎖国に入る前だった当時の日本では対外貿易が盛んで、対馬藩が李氏朝鮮との貿易を担い、薩摩に支配された琉球と中国との間接的な交易、そして東アジアの台湾や東南アジア各地で朱印船が活躍していました。
朱印船は琉球、朝鮮とはまた違った東南アジア各地の特産品、そして中国産の絹を多く必要とした日本の需要にこたえるかのように精力的な交易活動を行い、弥兵衛もそうした商人・商人のひとりでした。彼が歴史の表舞台に現れるきっかけになったのは、こうした朱印船のうち、寄港地のひとつとなっていた台湾で起きたタイオワン事件です。
ポルトガルとのマカオ争奪に敗れたオランダは台湾島を占領し、寄港する船から10%もの関税を取り立て、騎馬民族や日本との戦いで弱体化の一途をたどっていた明の中国商人は泣き寝入りを余儀なくされますが、平蔵や弥兵衛らはそれに反抗します。それに対抗したオランダはピーテル・ノイツを台湾の長官に任じ、徳川家光への交渉を試みました。寛永4年(1627年)の事です。
これに対して、平蔵と弥兵衛のコンビも負けじと反撃を試みました。弥兵衛が台湾の先住民を連れて、彼らは台湾を将軍に捧げるために来日した高山国の使節団であると主張し、ノイツの将軍拝謁を強固に阻止します。翌年、平蔵らの動向を危険視したノイツは先住民を捕え、弥兵衛にも渡航禁止と武器没収の制裁を行いました。
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この件に抗議する弥兵衛は、拒否してきたノイツを捕まえて人質にし、接収された船と財産の返還並びに日本への帰国を要求します。一時はオランダ東インド会社が弥兵衛達を包囲するもお互いに5人ずつの人質を出し合い、長崎に着いたら釈放することで同意しました。
しかし、今度は長崎の平蔵はオランダ人捕虜を監禁し続け、平戸オランダ商館も閉鎖すると言う挙に出ます。オランダ側は日本との交渉でノイツを解任して引き渡す事で捕虜を解放させると言う譲歩した対応をとり、オランダの要求を内心では危惧した幕府もそれに安堵して事態は収束しました。
弥兵衛が語り継がれるきっかけとなった関税撤廃(前述したように人質を取った際の要求は賠償と返還、帰国の確約)については、為されたとして語り継がれている事が多く見られますが、実際には撤廃されていなかったとする説も存在します(参考サイト参照)。
なお、本件の関係者として末次平蔵は寛永7年(1630年)に禁止された貿易に手出しした罪で斬られ、ノイツは寛永9年(1632年)から4年もの間日本に拘留された後に送還されますが、大立者・浜田弥兵衛のその後は不明です。子孫は大村藩(長崎県)に仕えたと言われています。
『青天を衝け』の舞台となった幕末から戦前にかけて日本の海外進出が活発化し、欧米列強への対抗、そして台湾統治と言った背景もあり、当時の政府にとって極めて有利な事績を残した弥兵衛は教科書でも大々的に取り上げられ、大正4年(1915年)には従五位が贈られました。反対に終戦後はGHQによって彼について書かれた書籍が弾圧の憂き目をみるなど、その時どきの権力・為政者の都合による毀誉褒貶の激しい人物と言えます。
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最後に、筆者は『青天を衝け』でその逸話が取り上げられた事を機に戦前の国策教育と戦後の言論統制でその実像が不明瞭なままになっている浜田弥兵衛が、客観的に知られるようになる事を願い、筆を置かせて頂きたく思います。
参考サイト
(寄稿)太田
→大田先生のシリーズを見てみる
→渋沢栄一の解説 日本の実業界・社会福祉・教育などに大きく貢献
→渋沢成一郎(渋沢喜作)とは 彰義隊・振武軍のリーダー
→尾高惇忠(尾高新五郎) 富岡製糸場の初代場長
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