江戸幕府はいかにして滅びたのか~幕末の時代背景

江戸幕府はいかにして滅びたのか

江戸幕府はいかにして滅びたのでしょうか。
このような質問をすると、大体このような回答が返ってきます。
それは「江戸幕府が無能であったからだ。」と。

江戸幕府

しかし、実際にはどうでしょうか。
江戸幕府が無能であったという説は近年では否定されています。

マルクス経済学・農業中心から商業中心への変化

ではなにが江戸幕府を滅ぼす根本要因になったのでしょうか。
江戸幕府を滅ぼす要因となったのは実は経済システムの変化でした。
マルクス経済学によれば、歴史をつくるのは「経済」なのです。
土台に「経済」があり、その上に「文化」や「政治」、「法律」があります。
つまり、経済が政治の良しあしを決めるのです。
たとえば、「経済が良いけど、政治は悪い。
また、経済は悪いが、政治は良い」ということはないのです。
では江戸時代は経済体制的にはどのような時代にあたるのでしょうか。




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この時代は、中世の封建制度と近代の資本主義の間にあります。
封建制度は鎌倉時代の御恩と奉公が有名です。
御恩は将軍から御家人に対して、土地を与えることです。
一方で、奉公は御家人から将軍に対して、労働力を与えることです。
つまり、土地と労働力の交換なのです。
次に資本主義を見ていきましょう。
資本家から労働者に対して資本(お金)を与えます。
労働者は資本家に対して労働力を与えるのです。
ここで注目してほしいのは、封建制度でカギになっているのは土地なのであり、資本主義でカギになっているのは資本(お金)なのです。
また、中世の中心となっているのは武士ですが、近代の中心は商人の身分であるのです。
このように、中世の土地中心主義から近代の資本(お金)中心主義に変わるのですが、江戸幕府はその変化に追いつけなかったから滅びてしまったのです。
つまり関ヶ原の戦い以降、薩長土肥の四藩がこのことを根に持ち、「徳川憎し」という感情が歴史を動かしたというのは嘘だったのです。
このように、歴史をミクロにみていくのではなく、マクロにみていく考え方が主流になっています。
つまり「歴史」を坂本龍馬木戸孝允といった「人物」で捉えるのではなく、江戸時代といった大きな「構造」で捉えているのです。

教科書の問題点

教科書等では歴史を大きな枠組みで捉えるのではなく、小さい枠組みでとらえてしまっています。
これだから歴史は「暗記ゲーム」と化しているといった批判はされています。
最近は日本史を幕末から学習している学校もあります。
これは歴史をミクロな視点からしか見ていない証拠として言えます。
歴史は「暗記ゲーム」ではなく、「物語」であることを理解する必要があります。




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江戸時代の初期から崩壊まで

1~3代将軍の経済政策

では江戸幕府の成立から見てみましょう。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は1603年に江戸に幕府を建てました。
主にこのころは中世の連続線上にあり、土地と労働力を交換する封建制度でありました。
この時期の封建制度で有名なものは石高制です。
今までの税収のとり方は主に土地の面積でした。
しかし、その取り方には問題がありました。
それは土地の良しあしです。
たとえ土地の面積があったとしても、そこが日陰だったり、土壌の状態が良くない場所であれば、「良い土地」とは言えない。
石高制ではそれを考慮して、「土地の面積」×「土地の良しあし」で判断するようにしたのです。
1~3代目の将軍の時代にかけては、前近代の流れがダイレクトに来ています。
また、文化面を見てみましょう。
この当時の文化の中心は幕府・朝廷でした。
特徴としては桃山文化を継承した豪華な文化・幕藩体制に順応した文化でした。
つまり、この時代は武士中心の封建制度でした。
しかし、この時代以降になると、商人が次第に台頭して、封建制度が崩壊していきます。
こうした事情からいうと、封建制度の最盛期であり、最終形といえるでしょう。




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日本の経済体制が変わって、260年の平和を維持しました。
三代将軍家光の時代の鎖国政策は日本の経済に与えた影響がとても大きいといわれています。
これは主に東アジアでは一般的に行われていることでした。
中国の海禁政策に端を発しています。
この東アジアのリーダーが鎖国政策をしているため、東アジアに属している日本や朝鮮、ベトナムなどの国家はこれをまねしたのです。
中国がなぜ海禁政策を行っていたのかというと、ヨーロッパの影響を国内に強めたくないという意図がありました。
16世紀以降の大航海時代に、ヨーロッパの国は自国にはない希少なものを手に入れるためアジアを目指しました。
アメリカ大陸を最初に発見したコロンブス、インドに海路で最初にたどり着いたバスコ=ダ=ガマは有名ですね。
こうして、中国との貿易を可能にしたのです。
ヨーロッパは中国を自国の領土にしようとしました。
ポルトガル領のマカオがあります。
植民地化するためには、中国人をヨーロッパの思想に染める必要がありました。
そのために、キリスト教を布教しようとしたのです。
一方で、中国側にもメリットがありました。
中国側にはヨーロッパの最先端の物を手に入れることができたのです。
つまり、ヨーロッパはキリスト教を布教でき、中国はヨーロッパの最先端の物を手に入れることができました。
両者にとって、ウィンウィンの関係だったのです。
しかし、中国にキリスト教が広まってしまい、中国にはキリスト教を守り、皇帝の指示は聞かないといったものも現れました。
これは日本にも起こりました。
例えば、キリシタンと呼ばれる人です。
江戸時代では、天草四郎などが有名です。
こうしたことを回避するために、鎖国体制になったのです。
では日本の経済にとってはどのような影響があったのでしょうか。




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まず、悪い点から話していきましょう。
悪い点としては、日本の経済成長が遅れてしまったことです。
ヨーロッパのシステムを導入していれば、日本は明治維新以降の急激な近代化をする必要がなかったのです。
急激な変化にはならず、ゆったりとした変化になったのかもしれません。
この場合、江戸時代の武士身分が失業したりすることもなかったのかもしれません。
良かった点としては、日本独自の経済システムが花開いたところです。
近年になって、江戸時代の経済が再評価されています。
江戸時代の経済システムは日本の精神にあったものだったのです。
西洋的な資本主義では日本は資本主義化できなかったのではないかといわれています。
      
4~7代将軍の経済政策

4~7代将軍の時代の時代は主に封建制度がぐらつき始めました。
この時代で有名なのが徳川綱吉です。
徳川綱吉は生類憐みの令や金貨の比率を変えた政策を出しました。
生類憐みの令は極端な動物愛護条例です。
蚊でさえ殺したら死刑になってしまうのです。
金貨の比率を変えた政策は荻原重秀が主導しました。
彼は兌換紙幣を最初に導入した人物として知られています。
不換紙幣は金と交換できない貨幣のことです。
小判に入っている金の比率を変えたのです。
もともと小判には金が8割入っていました。
しかし、6割にしたのです。
この不換紙幣とは1930年代に導入されました。
戦後には不換紙幣がスタンダードになっています。
しかし、当時の江戸時代の考え方は違っていました。
江戸の商人は金と貨幣が交換できることに価値があるという考え方を持っていたのです。
たとえば、金貨は溶かせば金になります。
しかし、紙幣は溶かしても紙になってしますのです。
この考え方があったから、小判の金の割合を変えることができなかったのです。
このように、貨幣の価値観を理解するにはまだまだ時間がかかります。




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また次の6,7代将軍の時代には新井白石が経済のかじ取りをします。
新井白石は小判の金の量を元通りにしました。
また、長崎貿易に対しても幕府の圧をかけました。
長崎貿易はもともと中国やオランダからの輸入を中心として行っていました。
しかし、それでは財政が破綻してしまいます。
そのため、輸出中心にしようとしたのです。
そのため、国内の産業を強化しました。
こうして、貿易赤字を解消したのです。
ここで、注目してほしい点があります。
それは経済の中心です。
封建制度で重視されていた土地に関する制度が全くないのです。
代わりにお金に関する政策は多くありました。
経済システムが変化していく所だったのです。
次にこの時代の文化を見てみしょう。
この時代の文化の中心身分は商人です。
たとえば、井原西鶴の日本永代蔵です。
この本には、町人の暮らしやもともと貧乏人だった人がどのようにして巨万の富を稼いだのかという物語が描かれていました。
これは町人が中心となった本として有名です。
このように、日常の生活にも商人の文化が台頭してきたといいます。
つまり、今までの封建制度で中心であった身分である武士が衰退していき、資本主義の中心となる商人が反映していったのです。
これからの時代はさらに商人の身分が政府の政策に絡んできます。

江戸の三大改革と田沼の政治

8~12代将軍の時代で、有名なものは江戸の三大改革です。
江戸の三大改革は享保の改革、寛政の改革、天保の改革です。
これらの政策で共通しているのは引き戻しです。
もともと江戸幕府は封建制度という土地中心主義でした。
しかし、時がたつにつれ資本(お金)中心主義となってしまいました。
これをまた土地中心主義に戻すのです。
これこそが江戸の三大改革の意義でした。
まず、享保の改革です。
享保の改革は8代将軍の徳川綱吉によって行われた改革です。
改革の一つ目は定免法です。
これは米の納税の比率に関する法律です。
江戸時代初期は米の納税の比率はその年のコメのとれた量で決定しようとしたのです。
たとえば、その年のとれた米の量が少なかったら、納税するコメの量は少なくします。
一方で、その年のとれた米の量が多かったら、納税する米の量を多くしようとしました。
しかし、これでは飢饉が起こったときに対応できませんでした。
このため、吉宗は米の納税の比率を一定にしようとしたのです。
また、百姓も経済的に裕福になっていき、米以外にも生産する余裕が出てきました。
そのため、様々な商品作物を作りました。




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二つ目は新田開発です。
有力な商人の力を借りて、武蔵野の新田などを開発しました。
しかし、ここにも書きましたが、「商人の力を借りて」とあるようにすでに商人が力を持っていることが明らかになっています。
次は田沼意次の改革です。
田沼意次の改革は江戸の三大改革には入りません。
理由としては三大改革の主軸は農業中心なのです。
しかし、田沼意次は商業中心にしたからです。
そのため江戸の三大改革と独立した形で、田沼意次の改革はあるのです。
まず一つ目の改革は、株仲間の公認でした。
株仲間とは有力な商人たちの組合でした。
これは正式には公認されていなかったのですが、田沼意次は公認しました。




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二つ目は貨幣の統一です。
この時期の貨幣は主に重さによって価値が決まっていました。
しかし、この貨幣になって貨幣の重さが統一されました。
これで貨幣の数によって、貨幣の価値が決まるようになったのです。
この時期の文化を見てみましょう。
この文化の中心身分は百姓と商人です。
百姓は経済的に裕福になっていき、米以外にも生産する余裕が出てきました。
そのため、様々な商品作物を作っていったのです。
たとえば、木綿や菜種といった作物です。
こうして、商品作物をお金に変えて、百姓でもお金を持つようになったのです。
この時期の社会を風刺した人物としては石田梅岩です。
彼は百姓や商人に対しての役割を強調しました。
次は寛政の改革です。
寛政の改革は松平定信が主導しました。
松平定信は吉宗の改革を見習いました。
たとえば、都市に出稼ぎに来た百姓を元の土地に返すようにしました。
また棄捐令を出しました。
この法律は旗本・御家人がしている借金をチャラにする法律です。
また、社倉や義倉を作り飢饉に備えました。
このように、江戸幕府初期の封建制度への回帰を目指しました。
しかし、今までの法律を全部変えるのは時代錯誤です。
そのため、飢饉や棄捐令などをだし、時代にあった封建制度を目指したのです。




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次は天保の改革です。
天保の改革もまた享保・寛政の改革にならいました。
百姓の出稼ぎを禁止し、もとの土地に返すことを寛政の改革でやっていましたが、天保の改革では強化しました。
また、株仲間の解散を命じました。
これ以降、公の場からは消えました。
しかし、隠れてその関係は続いていたのです。
この時期の文化の中心身分は下層の町人にまで及びました。

「三都をはじめ、多くの都市で常設の芝居小屋がにぎわい、また盛り場では見世物・曲芸・講談などの小屋、さらに町人地でも多数の寄席が開かれるなど、都市の民衆を中心とする芸能が盛んになった。」

(山川出版社 詳説日本史Bから引用)

結果江戸の三大改革は、すべて失敗に終わってしまいました。
そもそも、商業中心に変わっているのに、農業中心にしようとすることが時代錯誤であったのです。
また田沼の改革は商業中心に拍車をかけました。
結果的に、この時期に一番得したのは商人であるといってもいいでしょう。

薩長土肥の改革政策

一方で、この商業中心主義を薩長土肥などの大藩のほか、宇和島藩、越前藩などは受け入れたのであった。
たとえば、薩摩藩では黒糖、長州藩では紙・蝋、佐賀藩は陶磁器を専売しました。
薩摩藩は松前からの俵物を琉球に渡し、そこから清国と貿易した。
また長州藩は上方に運ばれる商品の運搬で利益を出していた。
また、三都の商人や領内の地主商人との結びつきを強めて藩権力の強化に成功しました。
たとえば土佐藩の坂本龍馬がつくった亀山社中です。
亀山社中は日本で初の株式会社で有名です。
これらの藩は武士中心の封建制度から商人中心の資本主義へと変わることに成功しました。
こうして旧体制の江戸幕府は新体制の明治政府に滅ぼされたのです。

まとめ

つまり江戸幕府崩壊の歴史は幕末に始まったものではないのです。
江戸幕府崩壊の歴史を理解するには江戸時代の初期から理解しないといけないのです。




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今日における歴史の理解はミクロ的なのです。
だから今回のようにもっとマクロに考えなければならないのです。
江戸幕府が崩壊したのは封建制度から資本主義へゆっくりと変わったから崩壊したのです。
また身分の中心も江戸時代初期は武士でした。
しかし江戸時代後期になるにつれ、百姓や下層の町人までもが中心となって行ったのです。

(寄稿)ロジカル

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