徳川家慶とは
徳川家慶 (とくがわ-いえよし)は、江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉の次男として1793年に江戸城にて生まれました。
幼名は敏次郎と言い、母は、側室である押田敏勝の3娘・香琳院(こうりんいん)です。
増上寺の発掘調査から、身長は約154cm、血液型はB型、文献からは生姜が大好物と見受けられます。
2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、歌手・俳優の吉幾三さんが、徳川家慶を演じられます。
生まれるとすぐに、徳川家慶が次期将軍と決定したようで、1796年、父の正室・島津重豪の娘(広大院)が徳川敦之助を産みますが、徳川家慶の将軍内定が、覆ることはありませんでした。
<注釈> 徳川敦之助は、1799年に4歳で夭逝。
1810年、生母・香琳院が死去。
しかし、幼いころから、45歳にて将軍になるまで、どのように過ごしていたのかなどは、よくわかっていません。
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1837年4月、父・徳川家斉は、徳川家慶に将軍職を譲りますが、その後も、幕政の実権を握り続けました。
この「大御所時代」は、1841年1月に、父・徳川家斉が69歳で死去するまで続いており、父とは不仲だったとされます。
天保の改革
父の死後、幕政財政建て直しのため、老中・水野忠邦による天保の改革が始まり、厳しい統制が行われましたが、大奥は改革に妨害するなど抵抗もありました。
また、早期に、側室・跡部正賢の娘(本寿院)が産んでいた、4男・徳川家定を将軍継嗣に決定しています。
<注釈> 跡部正賢の娘(本寿院)は、江戸城の西の丸大奥に出仕していた女中だった。
<注釈> 徳川家慶は正室以外に側室を8人持ち、14男13女を儲けましたが、成人まで生き残ったのは、乳母・歌橋が育てた徳川家定だけ。
ただし、政治にはあまり口出しはしなかったようで、水野忠邦や堀田正睦などが、徳川家慶に進言すると「そうせい」と言うだけであったともされます。
北町奉行の遠山景元(遠山の金さん)、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門を登用して天保の改革を進めていた水野忠邦でしたが、ついに反発を受けます。
江戸や大阪周辺の大名・旗本の領地を、幕府の直轄地にして、地方に分散していた直轄地をまとめて集中させようとした「上知令」(上地令)を計画したところ、大名や旗本が大反対しました。
これには、徳川家慶も、水野忠邦を罷免する選択をして、大名らを抑えています。
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阿部正弘の起用
そして、1843年、まだ、24歳の若さだった、福山藩主・阿部正弘を老中に大抜擢し、老中首座・土井利位のもと、幕政を担わせ、更には学問に優れた筒井政憲を幕政に関与させるなど、人材抜擢の手腕を見せています。
1844年5月10日、徳川家慶付きの上臈・姉小路が、食べようとした「天ぷら調理」がもとで、火災が発生し、江戸城の本丸が全焼しました。
この江戸城本丸焼失事件では、奥女中が数百人、焼け死ぬという大惨事となっています。
次期将軍としては、ひとり生き残っていた、徳川家定に定めますが、幼少の頃から病弱だったことかせ、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣に考えたこともあったようです。
しかし、老中・阿部正弘らが反対したこともあり、結局は徳川家定を将軍継嗣としました。
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1853年6月3日、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督の黒船来航にて、阿部正弘らが対応に追われる中、6月22日に徳川家慶は死去しました。享年61。
死因は「暑気当たりで倒れた」とあるため、熱中症による心不全を起こしたものと推定されています。
→徳川家定 徳川幕府の第13代将軍 幕末期の将軍
→水野忠邦の解説「天保の改革」 意気込みだけは良かった?
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