時山直八とは
吉田松陰が教鞭をとったことで知られている松下村塾。この塾では高杉晋作や久坂玄瑞をはじめ、伊藤博文、品川弥二郎など混迷を極めた幕末を切り開いた志士たちが塾生として学びを受け、その中には時山直八もいました。
直八は松陰からと評価された人物で、その生涯は松陰の評価に恥じない生き方でした。今回はそんな直八の生涯を追っていきたいと思います。
吉田松陰から気に入られた直八
直八は、天保9年の元旦に萩城外の奥玉江で、生まれます。父の名は時山茂作で、士雇と呼ばれた身分でした。
また、茂作による直八の教育はハードそのもので、幼かった直八を裸のまま雪の日に使いに出していたり、柔道で容赦なく投げ飛ばすなどして、直八を強い男子に育てました。
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13歳の頃には宝蔵院流槍術の師範・岡部半蔵の元に入門。同門の山県有朋と稽古に明け暮れました。安政5年になると、21歳の直八は松下村塾へ入門。奥玉江から松下村塾まで距離があったので、時々泊まりながら、勉強に励みました。
吉田松陰は直八のことをえらく気に入り、「中々の奇男子なり、愛すべし」と評価するくらい優秀だったことがうかがえます。
直八、江戸へ
しかし、松陰が再投獄されたことと自身が家督を継いだことで、松下村塾と疎遠に。江戸詰めを命じられた直八は江戸へ行きました。
江戸では、儒学者・安井息軒のもとで学び、清水昌蔵のもとで槍を稽古しました。
そして、長州藩の開国派・長井雅楽が自身の思想「航海遠略策」を幕府と朝廷の取り持ちのため、京都に向かう際、同行しています。直八は、同じ松下村塾の門下生で尊王攘夷派の久坂玄瑞や山県有朋が長井雅楽の暗殺を阻止する役目を買っていました。これには桂小太郎の活躍もありました。
直八の最後
文久3年になると、直八は玄瑞と行動を共にし、光明寺党を結成します。その後は8月18日の政変、禁門の変と戦いに赴きます。奇兵隊総督の赤禰武人の招きで、奇兵隊に参加後は参謀として活躍しました。直八は奇兵隊に入れたことに歓喜し、血盟書の写しを作成しています。
そして慶応4年に起きた北越戦争の際は、越後長岡藩に奪われた榎峠を奪い返すため、榎峠近くの朝日山を目指します。そこには、立見鑑三郎率いる雷神隊と長岡藩が待ち構えていました。
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直八は新政府軍を率いて戦いますが、頭部を撃ち抜かれ戦死。31歳の若さでした。直八の遺体は戦場の最前線だったため、首だけしか持ち帰れず、そのままでした。
また、品川弥二郎は直八が戦死した原因は有朋にあると非難し続けたそうです。
寄稿(拾丸)
→渋沢平九郎の解説~渋沢栄一の見立て養子で振武軍の隊員
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